ホーム:芸術と人文:歴史:世界史:何故日本ばかりが悪者にならなきゃいけないのか
「南京大虐殺」の方では、「南京虐殺」捏造擁護派が、反對派の言論封殺に本格的に動きはじめてをります。
私が彼らの議論を根本的に突崩す發言をした爲に、彼らの憎惡が私に集中してをります。「No_Zには議論をする資格がない」と決めつけてみたり、「No_Zは中傷發言しかしない野郎だ」と云ふレッテルを貼りつけてみたり――しかし彼らはついに「なぜ南京虐殺と呼ばねばならぬのか」或は「なぜ南京虐殺があつたと云ふ前提で話を進めねばならないのか」と云ふ根本的な疑問には答へられません。
それあさうです、不偏不黨の歴史の立場を彼らは演じてゐるのだから――日本を惡者にしたいと云ふ本音は出せません。飽くまで「事實」「科學的」で押して、日本を「客觀的に」惡者に仕立て上げるのが彼らの最初の目的であります。
彼らは日本が己れの「惡」を認めて、反省する事を望んでをります。なぜそれを望むか――彼らには、自分が既に「惡」を認め、既に「反省」して禊の濟んだ、「エリート」だと云ふ意識がある。或は「反省」する事で自分が善人に「生れ變つた」と思ひ込み、依然として「惡の中にゐる日本人」を見下してゐる譯であります。
お節介にも彼らは「惡の中にゐる日本人」をそこから「救ひ出して」やらうとしてゐる。彼らはメシア氣取りなのであります。なにしろかれらは「反省」して「絶對善」の立場にあるのだから、目の前で己の誤りをいくら指摘されようが意に介しません。目的が手段を正當化する――その實例であります。
しかし「南京虐殺」が假に事實であつたとしても、所詮自分以外の「誰かがやつた事」でしかありません。他人のやつた事を恰も自分がやつた事であるかのやうに反省する――そんなの僞善です。チェーホフ曰く「他人の罪を懺悔したつて聖者にやなれない。」「南京虐殺」を反省するのは無意味です。ならば「南京虐殺」なんて立證したつて無意味です。
最初から無意味だとわかつてゐるならせぬがよい。「南京虐殺」なんて論ずるのは無意味です。
實際になかつたものをあつた事にして、それを反省して見せる――それこそパフォーマンスでしかない譯です。大體、人間をシステマティックに虐殺していくなんて、日本人にできる技ではありません。
虐殺ができるほどシステマティックなら、日本人は戰爭に勝つてゐます。アメリカがB29なんて燒夷彈投下用の大型爆撃機を作つてゐる間に、日本は一生懸命特攻機や人間魚雷を作つてゐたんです。
神風特攻は、搭乗員の真摯は疑へぬが、そのやり方はセンチメンタルと云ふほかない。自分の命を張つて敵と戰ふ――それが日本人のやり方なのである。一方的に弱い敵をなぶり殺しにするなんて、日本人に出來る譯がない。くり返し言ふが、それが出來れば日本は勝つてゐる。
もちろん、俺は偉いんだ、と云ふ傲岸不遜な日本人だつてゐた筈だから、一般の支那人がなぶり殺しに全くされなかつたと言ふ譯ではない。しかしそんな日本人は少數であつたらうと思ふ。そしてもしさう云ふ日本人がゐたとすれば、それは今「南京虐殺」があつたのだと主張し、自分が絶對的に正しいやうな顏をして反對派を惡人と決めつけて議論から締出さうとしてゐる奴等みたいな人間であらうと私は思ふのである。
「謝罪派」の心理を分析してみたんですが、書いてゐるうちに腹が立つて來て「です・ます」體が「だ・である」體になつてしまひました。
彼らには、單なる職業意識と云ふよりは、自分が正しい事をしてゐるのだと云ふ選良としての意識があるのではないでせうか。或は彼らは、自分で自分を平和の使徒に任命してしまつたのかもしれません。
最初に「南京大虐殺」「從軍慰安婦」などのレッテルを貼る事は判斷の自由を奪ふ事にほかならない。
戰前戰中の軍國主義を「ファシズム」と稱す事も同じである。天皇と東條英機の二重權力が存在する時點で「獨裁」ではない事は明白――ファシズムには獨裁が必須であり、ならば日本の軍國主義は獨特のものであつて「ファシズムの一種」ではない。
或は「南京虐殺」では、それを歴史的事實として檢證する一方で、その定義には「戰爭犯罪」或は國際法を必要としてゐる。法學上の問題を歴史學的に檢證すると云ふ一貫しない事が、「事實」の一語の下に行はれてゐる。「南京虐殺」は「歴史的事實」か、「法學的事實」か。その兩者が巧みに混同され、混淆されてゐる。「從軍慰安婦」についても然り。
「事實」「レッテル貼り」「科學的」――全て己の「推測」を糊塗せんとする「謝罪派」の目くらましである。そしてその目くらましに、「謝罪派」自身が迷はされてゐる觀がある。或は「謝罪派」は進んで己れの判斷の自由を自分で奪つて喜んでゐるやうに思はれる。
ホーム:芸術と人文:歴史:世界史:南京大虐殺
先に「南京虐殺」と云ふ用語を作り、相手に押しつける事は、「南京虐殺」と云ふ用語が適切かどうか判斷する自由を相手から奪ふ事である。
……何か事がおきたと同時に名前をつけるといふのは、(書き手の側に)説明し、(讀み手の側に)よく考へる餘地がまつたくないことを意味する。そこから私が後に「閉ざされたテキスト」と呼ぶものがつくり出される。讀者は以下の文章を比較すれば、開かれたテキストと閉ざされたテキストの違ひをつかめる。
「このときに虐殺がおこつた。これは南京虐殺と言ふ」
「このときに南京虐殺がおこつた」
最初の文章は開かれてゐるが、二番目は閉鎖的だといふ私の意見に贊成されるのではないか。さらに、これ以上に閉鎖的な文章も作れる。
「このときに南京虐殺事件がおこつた。」
何かがおこつたと言つた上でそれに名稱をつけるのは、讀者にその事件を振り返り、「この事件にふさはしい呼び名だらうか」と自問する機會を與へることだ。……
(『南京虐殺は「おこつた」のか・高校歴史教科書への言語學的批判』クリストファ・バーナード著・加地永都子譯・筑摩書房・21〜22ページ)
1999.10.24
「Yahoo!掲示板・投稿記事総集篇」へ
「言葉 言葉 言葉」トップページへ