戦争は悪なのか
あなたの戦争についての考え方を教えてください
「戰爭とは他の手段を以つてする政治の繼續である」クラウゼヴィッツ
戰爭は國家同士の決鬪です。そこでは正義については爭はれます。しかし國家に正義はあつても善悪はない。なぜなら國家は集團であり、集團は心を持たない。心を持たないものに善惡はないからです。だから戰爭は所詮は政治の問題に過ぎないのです。
ちなみに、現代の戰爭は即ち核戰爭であるといふ觀念は誤りです。コソボ紛爭や灣岸戰爭といふ反證があります。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
核兵器だらうが機關銃だらうが、ナイフであらうとも、殺された人間にとつて世界は終りであります。核は「非人間的」と云ひますが、兵器なら皆「非人間的」であることに變はりはない。
一方で戰爭は戰爭自體として人間的な行爲です。そもそも人間の行ふことに非人間的と云ふことはない。非人間的なのは核兵器であり機關銃である――ひとでないものは皆さうです。人を殺す手段がいくら變はらうとも戰爭が人間的になつたり非人間的になつたりする譯ではありません。だからよい戰爭惡い戰爭なんてものもない。
核戰爭だけ特別扱ひして禁止するのは、極地戰爭を認めることになる。そんなの欺瞞です。今だらうが昔だらうが、戰爭は戰爭でしかない。戰爭に對する考へ方は絶對肯定か絶對否定しかあり得ません。
私は戰爭が人間の行爲であると云ふただそれだけの理由で、戰爭を肯定します。
これは Frage_Demon さんのMsg 11に対する返信です
>銃剣や機関銃は「基本的に」戦闘員の殺傷をその目的としている。一方、基本的に非戦闘員の無差別殺傷を生み出すことになるのが核兵器です。
銃劍や機關銃はただ單に人を殺す爲の道具です。相手が戰鬪員であらうが非戰鬪員であらうが區別せずに殺傷します。コソボでは核兵器は使はれなかつたが、非戰鬪員も澤山死んでゐる。核戰爭も非核戰爭も同じです。
だから根本的に戰爭が惡かさうでないかと云ふ問題は、人殺しが惡かさうでないかと云ふ問題になるんです。私は個人が個人を殺す事は惡だと思ふが、不特定多數の中の誰かが不特定多數の誰かを殺す事は善惡の彼岸にある事だと思ひます。
即ち必ずしも人殺し=惡ではない。よつて戰爭=惡ではない。
これは Frage_Demon さんのMsg 14に対する返信です
戰爭に反對する人達こそ惡だと思ひます。
人が撃たれたり傷ついたり怪我したり死んだりする
要するに可哀相な、悲惨なイメージで
人間を洗腦する譯ですから。
イデオロギー的に何等かの成果・收穫を得たいのなら尚更の事。
これは filterman_10 さんのMsg 18に対する返信です
私は個人には人格や精神を認めますが、國家には人格も精神も認めません。人は一人でゐるときのみ人である――或は一人が他の一人に接する時には人らしい附合ができる。集團が集團で行動する時、そこにあるのは人間らしい精神ではなく、イデオロギーや論理だけです。
要するに國家は機械の親戚だと考へてゐる譯です。機械が何をしようが、そこに善とか惡とかを見出し得ないやうに、國家が何をしようがそこには善とか惡とかは見出し得ない。
もつと言換へますと、個人は人を殺す事について惱みますが、國家は惱まない。個人に道徳はあるが、國家にあるのは政治のみ。
道徳と政治を峻別せよ――さう云ふ事が言ひたいだけです。
これは Frage_Demon さんのMsg 21に対する返信です
法律が通用するのは一國の中だけです。もちろん條約は憲法以上に遵守すべきだと云ふ事になつてゐますが、生き殘るか死ぬかの選擇を迫られたら國は條約を捨てても自國を守る方を採ります。國家は國民の大多數を生殘らせるのが目的で存在するものだから當然です。
國家は國家を越えるものを認めないのではない。ただ單に國家以上の存在など存在しないと云ふだけの事です。國家は人間社會に於ける最強の權力であり、國家以上に權力を揮ひ得る存在はない。この場合の權力とは軍事力を意味します。あらゆる國が自國の安全については軍事力に依據してゐる。
國際社會は弱肉強食の無法地帶です。そこに善惡など存在しない。ただかういふ現實は或意味合理的です。「國家を越えるもの」が存在して、それが「惡」の存在であつたならば、國家が「惡」である以上に恐ろしい事になる。
身勝手な國家がひしめきあつてゐる現状は最善ではないにしろ、次善のものではありませう。
これは Frage_Demon さんのMsg 21に対する返信です
>しかし、現在の民主主義国家の体系は、《国王=国家》という国家体系ではなく《国民=国家》と言う国家体系です。
国民と云ふのも結局は人の集団です。個人ではない。集団に人格はありえない。そこにあるのはイデオロギーであり、論理だけです。民主主義の國家だらうが社会主義の國家だらうが、國家は國家に過ぎず「機械的總體」であることに變りはありません。
民主主義國家にも人格なし、國民の總體的な人格もなし――そこにあるのは「民主主義」のイデオロギーだけです。ちなみにイデオロギーは所詮人間を機械化する論理に過ぎません。
それからマキアベリは絶對王政の國家の論理を云つたのではなくて、國家の根本的な論理を云つてゐると思ひます。國家は生殘るのが目的であり、いかなる手段を使つてもよいと云ふのです。
これは Frage_Demon さんのMsg 25に対する返信です
主義主張はご尤もです。私の文章の「微分」の結果も正しいです。ただ私は國際社會が無法地帶であるのと同じく、國家の中も無法地帶であると申上げたい。
日本は法治國家だと云ひますが、法律は犯罪者を罰するだけです。犯罪者が犯罪を犯す抑制にはなつても、実際に犯罪を犯してしまふ事を物理的に止める事はできない。所詮法は法に過ぎない――その點、國際社會も一緒です。
個人の暴走を法は止められず、國家の暴走も法は止められない。そもそも暴走を止めるには人間が欲望を捨てなければなりません。いやいや人間は欲望だけではない、正義感によつても暴走する。
國家や個人の暴走を止める爲には、人間は欲望であれ正義であれ、人間らしいものを捨てねばなりません。理想主義が人間に機械になれと命ずるゆゑんです。
これは Frage_Demon さんのMsg 26に対する返信です
民主主義と云ひますが、國家權力が國民を壓迫しない爲の仕組みに過ぎません。私は、國は愛すべきだが、國家權力を愛する必要はないと思ひます。
國民は國家權力の下に結束する譯ではない。自然に集まつてゐるだけです。國民の過半数が生殘る爲の手段が國家權力と云ふものです。生殘るのが目的だから權力は國民を人と見ないのは當然です。
國家權力が殘酷で結構、國民は各自が勝手に人であればいいんです。それを權力は否定できません。北朝鮮にも親孝行の息子はゐるものです。ただ北朝鮮みたいな國家體制では、親孝行で通すよりも親を賣る方が得だと云ふ事になりかねないから、我々は民主主義を選んでゐるんです。
これは Frage_Demon さんのMsg 29に対する返信です
國家權力は、國民の大多數をとりあへず生延びさせる爲に存在します。國民の衣食が足るまで、國家が面倒を見る譯です。禮節を知るのは國民の役目です。
或は、國家は國民を豐かにする事は出來るが、幸福にする事は出來ない。幸福になるのは個人個人の心構へによります。
社會主義が民主主義に敗れたのは、經濟的に敗れたといふのが歴史的事實でありませう。社會主義はマルクス主義經済學を基盤に計劃經済を採用したが、自由經済の方がそれより效率がよかつた。
或はソ聯がアメリカに敗れたのは軍擴競爭に敗れたからである――それだけの事ではないでせうか。ああ、最後にトピックのテーマに繋がつた ^ ^
これは Frage_Demon さんのMsg 32に対する返信です
大東亞戰爭だつて、物資を求める帝國主義戰爭としての側面もあれば、アジアの解放の爲の戰爭と云ふ大義名分もあるし、人によつては八紘一宇を眞面目に信じてゐたし、單に天皇の國を御守りするといふ意識もあつたでせうし、こんな戰爭やつても無駄だと思ひながら時代の流れに逆らへずに何となく參加した人だつてゐたでせう。
要するに、戰爭の理由を一概に決定出來るものなのかどうなのか、甚だ疑問に思ふ譯です。國民一人一人における意識を一々吟味すれば、確かに各自の意識を善とか惡とか決められるでせうが、總體としての國民の意識といふものはそれで決定出來るものかどうか。
まさかこんな所で多數決原理を採用は出來ない譯です。戰爭の理由として一概に善惡を決定する事は不可能でせう。
これは sunliner117 さんのMsg 35に対する返信です
>ところで貴方は、戦争の大義名分に「善悪」の判断が含まれていないとお思いですか?
それあ含まれてゐないでせう。イデオロギーは正しいか正しくないかしかないに決つてゐます。それに大義名分を唱へる主體は國家であり、國家には心がないから善惡は關係ありません。
ただ、大義名分に、從ふにしても反撥するにしても、その主體は個人ですね。そこではじめて善惡に出番がまはつてくると云ふ譯です。
これは Dr_2000 さんのMsg 43に対する返信です
>それに、心も持たない機械が、どうしてまた大義名分など唱えるんでしょう?
イデオロギーもまた人間特有のものと考へるべきですね。
ただ、イデオロギーを信じてゐる人は、そのイデオロギーが正しいと思つてゐるだけです。
大義名分に從ふ人々にとつての大義名分は、實現すべき正義でせう。イデオロギーはそれに從ふ人にとつて、實現すべき正義でせう。
>大義名分に従う人々にとっては、それは「善」なんじゃないんですか?
信じてゐる段階ではまだ善惡以前だと思ひます。
その正義に誠實に從ふこと、或は従ふべき正義に從へず、煩悶を感じること、またはその正義に本氣で反感を持つこと――そこにはじめて人間的と云ふものが現れる。
誠實に、或は本氣で正義を實行したり、實行出來ずに惱んだりするのが人間的と云ふことであり、道徳的に善いことだと思ひます。そして、何が正義かを知りながらどうでもよいと言つて何もしなかつたり、正義なんてないと言つて何もしなかつたりすると、それが道徳的に惡いと云ふ事になる。
これは Dr_2000 さんのMsg 46に対する返信です
>イデオロギーに善悪なし、ですか。マルクス主義者も、いつのまにかそんな事を言い出すようになってましたね(^_^;; そんな事を言い出した時には、もうイデオロギーとして破産してたんですけどね。
マルクス主義は破産しました。マルクス主義は人を澤山殺したし、理想を實現出來もしなかつた。
だがマルクス主義者は皆惡人だつたかと云ふとさうではないと思ふ。
中野重治はマルクス主義者で、駄文も書きましたが、彼は本氣でマルクス主義を信じてゐた。彼は愚かではあつたかも知れないが、道徳的に惡人ではなかつた。
イデオロギーは正邪のみ――だから間違つたイデオロギーに從ふことは後から愚かな行爲と呼ぶ事が出來る。しかしそのイデオロギーを信じて誠實に行動した人間を、惡だと決める譯にはいかない。
だから事は厄介なんです。
これは Dr_2000 さんのMsg 46に対する返信です
たかが漫画や、實體驗に怯んでゐては、形而上の話なんて出來やしません。
ホラー映画を觀て笑ふか怖がるかは、ホラー映画の映像論だけで論じられません。そこでは觀客の心理を分析する心理學や、恐怖の構造を理解する形而上學が必須です。
戰爭とホラー映画とを一緒にするな、と言はれさうですが、戰爭體驗記とホラー映画は似たやうなものです。どちらも、これでもか、これでもかと恐怖や氣持ち惡さを煽るものに過ぎません。
あんまり「私の戰爭體驗」なんて文章には惑はされぬ事です。所詮、人は文章を飾つて書くものです。
これは Frage_Demon さんのMsg 51に対する返信です
>どの国であろうとも、自身の国土の自衛以外に自身の国軍を動かすべきではない。それは国連の仕事。日本の「自衛隊」こそが、理想の軍隊像です。
この論理つて、變です。「自身の国土の自衛以外に自身の国軍を動か」す事がないのなら、侵掠戦争なんて起きないんだから、そもそも國聯も自衞隊も要らない事になりますよね。
これは Frage_Demon さんのMsg 52に対する返信です
>うん、そう。そうなったら一番良いぢゃない。でも、まだそこまで国家は成熟してはいません。
話は逆です。自分達は侵掠戦争をしない、しかし防衞戰爭をするのは認める――と云ふのは、自國の侵掠を認めないが、他國の侵掠を認める行爲だと云ふ事です。侵掠を認めないのなら、他國が侵掠をする事もまた否定しなければ筋が通らないでせう、と云ふ事です。
これは Frage_Demon さんのMsg 57に対する返信です
>形而上学のみで思考する、そう言った偏った見方は奨められません。社会主義革命を目指すものは農民の生活を見るべきである、それと同じです。
インテリゲンチャの農民への同情なるものが嗤はれたものですが、インテリはインテリ、農民は農民であり、インテリが農民の體驗を實感する事は不可能です。即ち、現實を知らないものの追體驗は不可能です。
戰爭も同じ、平和しか知らない人間が、戰爭下の人間の體驗なんてわかる譯がないのです。戦争を體驗した人間が何を言はうが、我々の方が理解出來ないやうになつてゐるのだからしかたがない。
>戦争を体験した人間にしか解らない戦争の本質はあるものです。
小林秀雄もさう云ふやうな事を言つてゐますね。
「……臆病は文明人の特權だなどといふ利いた風な意見は、平時戰時を問はず、單なるナンセンスである。そんな意見が納得出來るのも、ほんたうの恐はさを知らずにゐればこそだ。知つたら誰でも勇敢になりたいと思ふだらう。そして實際、勇敢になるだらう。」(戰爭について)
これは Frage_Demon さんのMsg 58に対する返信です
>……戦争で死ぬことのばかばかしさを描いたものであります。だからこそリアリティがあるのです。
大東亞戰爭當時、戰爭で死ぬ事は神聖だとされましたね。勿論それは戰時イデオロギーの結果です。ならば今、戦争で死ぬ事は馬鹿馬鹿しいと言ふ――それは平和イデオロギーの結果なのではないか。
單に戰爭で死ぬのは神聖か、馬鹿馬鹿しいか、それを言ひたいのではないのです。第一實體驗をもとに語るのならば、死が意味を持つか持たないかなど、誰にも分りはしない。問題は「リアリティ」です。
死んで、生き返つた人間は一人しかゐないから、死の意味を語りうる人間は一人しかゐないですね――その一人とはキリストです。キリストは死を恐れぬ事を教へた。キリスト教の爲には殘酷になるべき事を教へた。
死んで蘇つた人間が戰爭(聖戰・十字軍……)で死ぬ事を否定しないのだから、私は戰爭を否定しません。
「戰爭で死ぬ事は馬鹿馬鹿しい」と言ふのはリアリティがないと思ふ。
これは Frage_Demon さんのMsg 58に対する返信です
どうも納得が行かないんですが……自衞軍の存立を考へると云ふ事は、相手の國が侵掠行爲を考へてゐるのを前提としてゐる譯ですよね。すると我々は相手が侵掠してくるのを待つて、戰爭をはじめようと考へてゐる譯ですよね。
どちらが先かが違ふだけで、結局戰爭をする事には變はりがない。となると、私もFrage_Demonさんも、戰爭を認めると云ふ點では一致しますね。
戰爭は惡くないと云ふのはFrage_Demonさんもお認めになる譯ですね。
これは Frage_Demon さんのMsg 62に対する返信です
結局私は、イデオロギーの内容についてよりも、それを信じる個人の側に道徳はある、善惡はあると思つてゐるんです。
逆に言へば、民主主義を信じてゐようゐまいが、それはその人が善人である證據にはならないと云ふ事です。
――イデオロギーに關する認識ではDr_2000さんと私の認識は一致してゐるやうですね。
これは Dr_2000 さんのMsg 64に対する返信です
今は確かに國際化の時代なのです。日本は鎖國出來ないし、一國平和主義も採れない。なぜなら日本は自分で自分を守れるほど、現時點で強くないからです。
今いきなり、アメリカとの同盟を斷切つても、そこに突然支那が、韓國が、北朝鮮が、ロシアが――いやいや、同盟を切つたのだから當然アメリカが攻めてくる事を考へなければならない。仮装敵國と言ふと、近隣諸國を指すのだと思はれてゐる。しかし事實は、日本にとつての最大の仮装敵國はアメリカにほかなりません。
現在の日米安保條約について、「今の日本は米国の覇権主義に追随するだけの飼い犬」と解釋する事が多いですが、私はその意見に與しない。むしろ仮装敵國アメリカを敵にまはさない最善の手段だと考へてゐます。
これは Frage_Demon さんのMsg 72に対する返信です
>今の日本では北朝鮮が仮想敵国と言うことになっているが、北朝鮮が潰れれば今度は支那と言うことになるでしょう。
さうではないでせう。現時點で、日本の假想敵國は日本以外の総ての國です。
親米ナショナリズムも反米ナショナリズムも別に構はないが、私はナショナリストではない。單に日本にとつて最大の假想敵國は昔も今もアメリカであり、アメリカを敵にまはすことほど日本にとつて危險なことはない――と私は思つてゐる。
日本のナショナリズムよりも、日本の安全の方が大事だから、私はアメリカとの同盟を續けるべきだと思ふ。
これは Frage_Demon さんのMsg 75に対する返信です
>あのベトナムでさえ、米国に勝利したのですから。
あれはアメリカが勝手にヴェトナムから軍を引き上げただけのことです。決してヴェトナムがアメリカに勝つた譯ではない。
もしアメリカがヴェトナムにもつとこだはつたら、ヴェトナム戰爭はアメリカ側の勝利に終つたことでせう。
これは Frage_Demon さんのMsg 74に対する返信です
>米国は現時点では世界で最も高い倫理観を体現している国だと思います(^^)
>それを一概に説明する事は困難ですが、
>米国が信頼できないという理由でも貴方が挙げて下されば、
>もっとよく説明できると思いますよ(^^)
横槍です。
アメリカは決して「世界で最も高い倫理観を体現している国」ではないと思ひます。ただ單に自由主義の最先端を突つ走つてゐるだけのことだと思ひます。そして自由が大事な日本人にとつて、自由主義の最先端にゐるアメリカは憧れなのに過ぎません。かつて共産主義旋風が吹き捲つた時代、共産主義の最先端を突つ走つたソヴィエト聯邦が憧れだつたやうに。
ちなみに私は親米派です。なぜなら日本の最大の假想敵國はアメリカだからです。敵にまはすよりは身方につけておいた方がよい、といふ判斷です。
これは Dr_2000 さんのMsg 89に対する返信です
>ソヴィエト連邦は、その昔、「世界で最も高い倫理観を体現している国」だったのです(^^)
>だからこそ、人々はかの国に憧れたのです。
>ソ連がレーニンの時代に、あらゆる帝国主義的利権をみずから放棄した事を知りませんか?
「あらゆる帝国主義的利権をみずから放棄した」なんて信じません。
そもそもレーニン時代には既にスターリン時代の萌芽があり、スターリン時代ソヴィエト聯邦はフルシチョフの批判を受けたやうに「世界で最も高い倫理観を体現している国」ではなかつた。
ならばレーニン時代に既にソヴィエトに問題點が存在したのは決つてゐる。
ソ聯が一度として、「世界で最も高い倫理観を体現している国」であつたことはありません。
これは Dr_2000 さんのMsg 91に対する返信です
或國が「あらゆる帝国主義的利権をみずから放棄」することと、その國が「世界で最も高い倫理観を体現している国」であることは關係ありません。利權と倫理は無縁です。
>……スターリン時代ソヴィエト聯邦はフルシチョフの批判を受けたやうに……
「スターリン時代 ### の ### ソヴィエト聯邦はフルシチョフの批判を受けたやうに」と「の」を脱かしたので入れて讀んでやつて下さい。
これは No_Z さんのMsg 92に対する返信です
>うーむ、宗教の世界にいっちゃってますね(^_^;;
「あらゆる帝国主義的利権をみずから放棄した」つてのをあんたは信じてゐるんだよ。あんたが宗教人なんだよ。
>まあ、1917年のわずかな期間だけだった訳ですけどね(^_^;;
>しかし、他の国よりはマシだったのです(^^)
馬鹿だね。まあソ聯にはジイドだつて欺されたんだ。馬鹿が欺されつぱなしなのも仕方がないか。
これは Dr_2000 さんのMsg 94に対する返信です
倫理は絶對的なものだから「レヴェルの差」なんて言ひ方をする時點でDr_2000は勘違ひしてゐる。
これは Dr_2000 さんのMsg 95に対する返信です
人間の精神を認める限り倫理は存在する。そして人間の精神と云ふものの存在が絶對的なものならば、倫理は絶對であるに決つてゐる。
これは K_CN さんのMsg 98に対する返信です
社會生活に於て、人間同士の關係を規定するものを徳目といふ。「人は親切でなければならぬ」――これも徳目。「人は人を差別してはならぬ」「人は平和を愛さねばならぬ」「人は民主的にことを運ばねばならぬ」――みんな徳目です。教育勅語が徳目のいい例だ、日本人の守る # べき # ことが書かれてゐる。
そしてさうした徳目といふものは絶えず人間精神と衝突する。そこで葛藤が生ずるが、その葛藤を認めることを倫理と呼ぶ。人間が人間たる所以は、欲望と徳目の葛藤に耐へること――それが倫理であります。
徳目即ち「倫理」だと考へるから、「倫理」は變はると思はれるんです。現實には徳目が變はるに過ぎません。しかしいかなる時代でも、徳目と人間の精神は衝突を起こす――それを私は永遠のものだと言つてゐるだけのことです。
これは K_CN さんのMsg 100に対する返信です
Dr.2kはメッセージ102番を讀んでゐないみたいなので讀むこと。
それから、日本人は「大和心」だけでやつていけない。西歐を知る努力をしなければならない。
Dr.2kは「大和心」だけでやつていけると思つてゐるのか? その邊をきいてみたい。
これは Dr_2000 さんのMsg 106に対する返信です
一邊起つた事は何時迄も續くのさ。たゞ色々な形に變るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ。
――夏目漱石の『道草』の結末であります。倫理の問題もまた然りではないでせうか。
>で、「レヴェルの差」に戻ると、倫理に高低はないということでいいのかな?←分からなくなった
一度わからなくならないと、問題は始まらないと思ひます。最初から結論が出てゐる議論ほど詰らぬものはありません。
ちなみに冒頭の文句に對して細君の言つた「御父さまの仰しやる事は何だかちつとも分りやしないわね」と云ふ言葉が今の大部分の日本人の本音でありませう。しかし、それでは困るのです。
これは K_CN さんのMsg 103に対する返信です
>そういうのって普通「ストレス」とか「がまんする」とか言うんじゃない?
ストレスとは無關係だと思ふ。それは心理學の方面に行つてしまふ。
>わざわざ「倫理」なんて言葉を使う理由を、もしよかったら教えてほしいもんですね。誰か他にそういう「徳目」と「倫理」の使い方をしてる人がいました?
誰も言はないから言つてゐるんです。私は證據の嚴密主義よりも道理の嚴密主義をとる。まづものの道理と云ふものを解き明かしてから、現實を見るがよからうと言つてゐるんです。
原則としての徳目と、現實の倫理をごつちやにしてゐるから、しばしば思考の混亂が起きる。私はそれを問題にしてゐるんです。
これは betadine さんのMsg 107に対する返信です
うん、あなたと議論するのは時間の無駄だ。元氣でね。あんたは元氣しか取り柄がないから。
これは Dr_2000 さんのMsg 111に対する返信です
>「原則としての徳目と、現實の倫理」とおっしゃってるから、「ものの道理」とは「徳目」という言葉を言い換えたものと考えていいですか?
うん。原則論と現實論を區別しようといふ事です。
>No_Zさんの言う「徳目」とは「社會生活に於て、人間同士の關係を規定するもの」(102)でしょ。つまり先に「人間同士の関係を規定するもの」を解き明かしてから現実を見ようって言ってるわけですか?
なにしろ、ものの長さを測るには、先づ定規やメジャーがなくちやいけない。
>それじゃ「人間同士の関係を規定するもの」って何ですか? 「徳目」であるなんて答えはしないでくださいよ。
それが徳目であるのだが、何で言つてはいけないのかな? 徳目とは人倫の道に於て、ああせよかうせよと一方的に命ずるところのものだ。人に親切にせよといふのが徳目の一例であり、現實に親切にできずに惱むのが道徳的行爲といふものである。
或は教育勅語が徳目のいい例だ。
これは betadine さんのMsg 112に対する返信です
原文はこちら參照
http://www.sun-inet.or.jp/~hba7615n/tyokugo1.HTM
――父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し……
現實にそんなことが出來る譯がない! それに既に教育勅語の精神なるものを日本人は捨ててしまつた。
★今更教育勅語に戻れる譯がない。教育勅語復活を叫ぶ右翼の主張が無意味である所以である。
實際には守りえないが、守る「べき」もの――それが徳目である。そして日本人が徳目一般を捨てて久しいのである。
だが、徳目なきところに道徳なし。規範なくして反逆なし。徳目といふ、己を縛るものが無いのに、人間が葛藤を覺えることはありえない。だから今の日本國には道徳が拂底してゐるのである。それはよくない事だが、どうにもならない事なのである。
これは No_Z さんのMsg 114に対する返信です
古くなったって、いい酒はいい酒だぜ。
これは FORCEPS さんのMsg 118に対する返信です
>したがって避けるべきことだ
戰爭は避けえぬものであります。そもそも人間は、命より大事なものがあるから戰爭をするのであります。
>傷ついた人達の心を思えば、二度とやってほしくない
「傷ついた人達の心を」思はなければよい。赤の他人に同情した振りをするのは僞善だから、僞善をやめればよい。さうすれば何度でも繰返してよいと云ふ事になる。
これは yuniko99 さんのMsg 121に対する返信です
お前戰爭で死にたいのかと問はれて、私は死にたくないと答へる。すると相手は居丈高に、ぢやあ戰爭には反對しろと言ふ。しかしそこには論理の飛躍がある。自分がどうしたいと云ふ事と、世の中はどうであらねばならぬと云ふ事の間に、論理的な聯關は無い筈だ。
私は戰爭で死にたくはないが、自分の命惜しさに戰爭反對と言ふ積りはない。
これは yuniko99 さんのMsg 125に対する返信です
「人が死ぬのはいいが自分は死にたくない」と云ふ事と、責任をとらないと云ふ事とは別の問題だらう。
他人が死んで自分が生延びた時に、その人は責任をとつてゐないと言へるか。人が重荷を背負つて生きていくこともまた、責任の取りやうの一つなのであります。
そもそも、正しいことを主張する時に、自分が正しくあるかどうかは別の話です。汝姦淫する勿れといふ言葉は意味がある。人はいざと云ふ時死なねばならぬといふ言葉も意味がある。
これは yuniko99 さんのMsg 128に対する返信です
>自分が死にたくない⇒殺されたくない
ここは論理的と言つてもよい。
>⇒殺すことと殺されることは相対的に同じような確立で起こるだろう(人倫)⇒殺せば殺されるだろう
それがいつのまにか推測に變はつてゐる。
>⇒お互いに殺し合わないようにしなければ自分も殺される(家族も)⇒戦争は殺し合うことだ(鬼のような殺人兵器の中に住んでいれば別かも)
推測が突然斷定に變はる。
>⇒殺し合わないため、戦争をしないためには努力が必要〈ほっておくと起こる、肉が腐るように)⇒自分も死にたくないし、親しい人にも死んでほしくないからその努力をしよう(責任)⇒そのためにはどうすればいいか
斷定が目標に轉化する。
――論理的に一貫してゐませんね。或はこれこそ「論理のすり替へ」と云ふ言葉がふさはしいのかも知れない。
これは yuniko99 さんのMsg 130に対する返信です
戰爭は絶對的に肯定されるものです。何もしないよりは惡いことをした方が善い。道徳的に、0よりはマイナスの方が、意味がある。0であることこそ、道徳的にもつともおぞましいことであります。
これは yuniko99 さんのMsg 132に対する返信です
そして自分の非論理性を天下に公表しただけ。
なるほど。
論理的でもなんでもない、ただの好き勝手を書いただけだから、論理のすり替へも何もなかつた訳だ。
論理のすり替へが出來るほど、ユニコくんは頭が良くないんだから。
それにしても、平和主義者つて、馬鹿が多いねえ。
これは yuniko99 さんのMsg 134に対する返信です
現實に死ぬのが嫌だと言ふことと、原則的に戰爭は惡くないと言ふことは兩立すると思ふ。現實に原則を屈伏させるべきではない。さうしたら、現實を律するものがなくなつてしまふ。
>単純に、自分は痛い思いをしたくない。死にたくもない。だから正義だか何だかを持ち出して実施する"戦争"っていう大量殺人会は真っ平ごめんだ、という考え方も案外正しかったりするのではないですか?
單に自分が死にたくないといふだけのことを肯定するために、戰爭を否定するのは正しくない。絶對に正しい譯がない。單なる自己憐憫よりは、生命以上の價値を信ずる方が、絶對に上等だ。
私は豚の平和より、人間の戰爭を支持する。
これは M40A1 さんのMsg 144に対する返信です
いいえ、第三者にも、戰爭の善惡は決められません。日本人だからといつて、キリスト教の主張する善とイスラム教の主張する善のどちらが正しいかは判定出來ません。
戰爭に於て、當事國の主張する善は否定出來ぬものであり、第三者が判定出來るやうなものではない。
これは moonworld さんのMsg 143に対する返信です
>力で相手を屈服させるのは獣の論理である。
>私は獣の戦争より、人間の平和を支持する。
獸は繩張りをめぐつて爭ふか、雌をめぐつて爭ふか以外に、同じ種同士が爭ふことはない。即ち「獸の戰爭」なんてものは存在しない。
正義とか宗教とか理念とかの爲に同じ種同士が爭ふのは人間だけである。戰爭をするのは人間だけである。戰爭は人間だけのものなのである。
人間が戰爭をやめた瞬間に、人間は人間でなくなる。私は人間が動物と同じになるのを好まない――人間は人間でなければならぬと思ふ。
だから私は戰爭を否定しないし、平和主義に反對するのである。
これは Kubittake さんのMsg 149に対する返信です
>伝統的に感情的に悪いとされて来たことを、なぜ悪いと言われるとその説得には難しいことがあります
戰爭は「伝統的に感情的に悪いとされて来たこと」ではありません。
これは yuniko99 さんのMsg 148に対する返信です
>猟奇殺人をするのは人間だけである。
「民族とか宗教とか理念とかの爲に」といふ重大な條件を拔かしてゐる。
これは logician さんのMsg 153に対する返信です
人間にとつて重要なのは、戰ふ戰はないと云ふ目に見える現象ではない。
民族とか宗教とか理念とか、或は論理とか哲學とか思想とか、道徳とか政治とか倫理とか文學とか――さう云ふ形なきものなのだ。
私は戰爭主義者ではないし、平和主義者でもない。私は平和や戰爭を好んだり憎んだりしてゐるのではない。「主義」と云ふことを憎んでゐるのだ。
これは No_Z さんのMsg 155に対する返信です
>獣の戦争と言うのは考えればもっといい方法があるのに欲望や憎しみで強行される戦争と言う意味では?
すると否定されるのは「獸の戰爭」だけであります。それ以外の戰爭は肯定されるのであります。
これは yuniko99 さんのMsg 157に対する返信です
>人間が人間であるというテーゼを達成するための方法が『戦争』だけだとは到底思えない。
すると、あなたは「人間が人間であるといふテーゼを達成するための」ひとつの方法が戰爭であると御認めになる譯だ。
これは Kubittake さんのMsg 158に対する返信です
人間が或主義を信奉するしかないのならば、眞劍に信ずるべきである。人が眞劍であるといふのは、その對象がなんであれ、道徳的だからである。
私は或主義を盲目的に信じて、それで安心してゐるぐうたら(例:「反No_Z主義」のFORCEPSなど)を憎むのである。或主義を信じたら、本氣にならねばならぬ。敵を殺してでも己の主義を信ずるといふくらゐに眞劍でなければならぬ。それほどまでに眞劍になれぬ××主義者を、私は憎むのである。
これは FORCEPS さんのMsg 160に対する返信です
>”民族とか宗教とか理念”
>これらの為になんで殺しあう必要があるんですか?
>何の為に頭と口と耳があるんですか?
口で言つてもわからぬから、殺し合ふ必要があるのだ。
>人間は思い上がりすぎてるんじゃ無いでしょうか?
暴力を越えるもので何でも解決できるほど人間は立派だと思ふ方が、思ひ上りではないか。それほど人間は立派ではない。
これは gigugigu さんのMsg 161に対する返信です
> 戦争しなくても トラブルを解決する 手段はあると思いますよ。
それあある。人間が、己の誇りを捨て、相手の言ひなりになつて慘めに生延びる道を選べるのならば、戰爭はなくなる。
だが、人間は己の誇りを捨てられるものではない。單に生延びるだけで滿足してゐられるほど、人間は慘めな存在ではない。
> 極端は いけません
> 人間が 考える早さは 昔も今も 同じです。
> 時間をかけて 考えましょうね。
> みんなで考えるのです。
……日本は平和だ。平和惚けしたのんびり屋にしか、かかる惚けた考へは出てこない。
これは awatenbou さんのMsg 162に対する返信です
欲得づくで起こる戰爭ならば、欲を我慢すればなくなるでせう。しかし戰爭は欲得づくで起こるばかりではない。日本人が欲得づくでしか戦争をやらなかつたからといつて、ほかの國が皆欲得づくで戰爭をやらかしてゐると思つたら大間違ひです。
主義主張、宗教、正義――西人は義の民であると鴎外は言つてゐます。現代の日本人は西人も東人もあつたものではない、十把ひとからげに自分と同じ、欲の皮のつつぱつた人間しか世界にはゐないと思ひ込んでゐる。
しかし平和主義者はさう言ひながら、自分だけは聖者みたいな顏をしてゐるのである。そこが平和主義者の、一番信用ならぬ點なのだ。
これは awatenbou さんのMsg 168に対する返信です
>人間が人間であるというテーゼを達成する方法は他に幾らでもある。
ならば「哲学、文学、宗教、科学」のどれか一つを捨てても構はぬといふのか。「哲学、文学、宗教、科学」のどれも捨ててはならぬものだ。戰爭も同じ――人間が捨ててはならぬものなのだ。戰爭は人間の誇りと正義と信念が起すものだからである。
>しかし、人間が人間であるために何をすればよいか、それは人間個人個人が決めることである。
違ふ、違ふ、違ふ。斷じて違ふ。人間が人間であるか否かは、人間自身に決められるものではない。人間は人間として生れてくるのだ。
>戦争とは、相手が何を以て「人間の条件」とするかということなどお構いなしに、問答無用に多数の人間を殺傷する。
人間は自分だけが精いつぱい生きればよいのだ。自分自身を疎かにして他人のことばかり考へてゐるのは、自己逃避にほかならない。
>戦争とは軍人の自慰である。
違ふ。戰爭は軍人だけのものではない。
これは Kubittake さんのMsg 170に対する返信です
>だったら、社会変革の方法はテロル以外にはありませぬな。
安易なテロルは容認しない。言論で人を動かすよりも、爆彈で動かす方が簡單である。だから爆彈で人を動かすテロルは言論よりも格が下なのである。
そして言論に於ては、理で以て人を動かすよりも、アジテーションで動かす方が簡單である。だからアジテーションを使ふ政治は低級なのである。
だがさう云ふ政治にとらはれる人間もまた、眞劍になるのである。そして眞劍になれば當然手段を選ばなくなる。二葉亭四迷は、文學には夢中になれぬと言ひ、爆裂彈の方が増しだと言つた。もちろんこれは間違ひである。しかし二葉亭の眞劍を今の日本人の誰が嗤へるか。
>まともな民族主義者ならば支那へ進出せよ、まともな共産主義者ならば天皇を殺せ、とでも言うことかな?
今の右翼も左翼も眞劍でないと思つてゐる。特に左翼は、本氣で革命を起こす氣があるのか。ちなみに右翼だけで支那に侵掠をしかける事は出來ぬ。右翼もいざとなつたらクーデタを起す氣がないと云ふのならば無意味である。
そして私は、さう云ふ政治主義よりも、理に依つて人を動かす眞の言論の方を信ずる。
これは Kubittake さんのMsg 171に対する返信です
1999年8月29日 10時40分
1、将来有望な若者が多数死んでしまう。
2、国土が荒廃してしまう。カンボジアの地雷問題など。
3、戦争の被害を女性、子ども、老人といった弱い者が被る場合が多いから。
ボスニア紛争etc。
4、戦争中に死の恐怖から逃れたり、痛み止めのために麻酔の代わりに麻薬を使い、ベトナム戦争後のアメリカ、アフガン戦争後のロシアで麻薬中毒の患者が急速に増加しました。
5、兵士達が戦後生きて母国に帰国できても、心の病に苦しむケースが多々あるから。
6、今日の戦争は化学戦なので、ベトナムのベットちゃん、ドックちゃんのようなケースも多い。今ベトナムで沢山の奇形児が生まれているし、アメリカでも枯れ葉剤を被った兵士が生む子供は奇形児である確立が通常よりもはるかに高い割合を占める。
以上六点の理由から、戦争は悪だと結論づけられます。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
(20歳/男性/jp) 1999年8月29日 13時20分
<安易なテロルは容認しない。言論で人を動かすよりも、爆彈で動かす方が簡單である。だから爆彈で人を動かすテロルは言論よりも格が下なのである。
>あなた、解ってるぢゃないか。
テロルと戦争を置き換えてみれば、戦争という行為が格下であることが理解できないのだろうか。
民族独立のためにテロルを用いるのも、民族独一のために戦争を用いるのも、結局のところその根底に流れる思想は同じなのである。
つまりは、「目的が手段を浄化する」と言う思想なのである。
これは No_Z さんのMsg 173に対する返信です
>だったら何故に宗教、政治、国家、民族・・・・・そんな単なる自身の外的規定要因に過ぎぬ概念の為に死ななければならんのか。
「外的規定要因に過ぎぬ概念」なんてどうでもよい。天災と一緒だ。そんなものを氣にするやうでは人間、精いつぱい生きるなんてことは出來ない。
そもそも私が「精いつぱい生きる」と云ふのは長生きするとか生延びるとか云ふ意味ではない。より善く生きると云ふ事だ。より善く生きるためにはより善く死ぬ事も時には必要である。
>ちなみに、自分が死にたくないと言う考え方から来る反戦運動は、自分だけが精一杯生きたいという感情から来るのではないのかしら?
全然違ふ。單に生延びたいといふ感情は「精いつぱい生きる」とは違ふ。
>No_z氏は、「自分の為に」という言葉を「○○共同体の為に」という言葉にすり替えている。
すりかへてゐるのはKubittake氏の方だ。
これは Kubittake さんのMsg 177に対する返信です
何で置き換へられるのかなあ。それから――
>だがさう云ふ政治にとらはれる人間もまた、眞劍になるのである。そして眞劍になれば當然手段を選ばなくなる。二葉亭四迷は、文學には夢中になれぬと言ひ、爆裂彈の方が増しだと言つた。もちろんこれは間違ひである。しかし二葉亭の眞劍を今の日本人の誰が嗤へるか。
――の部分をkubittake氏は故意に無視してゐる。
これは Kubittake さんのMsg 178に対する返信です
1、2は經濟、3、6はセンチメンタリズム、4、5は心理學の問題にすぎない。經濟やセンチメンタリズムや心理學から、善惡と云ふ道徳上の結論はひきだしえない。論理に飛躍がある。もつと論理的にものを考へるべきだ。
これは omegatribes さんのMsg 176に対する返信です
>「理に依つて人を動かす眞の言論」。聞こえはいい言葉だが、暴力に屈しない強い言論への意志がなければ、到底そんなものは成立しない。
「暴力に屈しない強い言論への意志」――それこそ「聞こえはいい言葉」に過ぎまい。
これは Kubittake さんのMsg 179に対する返信です
口減らしのための戰爭なる思想は危險です。人間を數で處理しようとしてはならない。
これは athlon600mhz さんのMsg 180に対する返信です
(20歳/男性/jp) 1999年8月30日 13時28分
<「外的規定要因に過ぎぬ概念」なんてどうでもよい。天災と一緒だ。そんなものを氣にするやうでは人間、精いつぱい生きるなんてことは出來ない。
>あなたはそれら「外的要因に過ぎぬ概念」の対立が戦争を生みだす、それは尊いものだから戦争を否定しない、と言っているのではないのか? それから、「天災と一緒だ」と言うところは、もう少し説明してくれねば解らぬ。私ゃ、読解力が足りないからね。
<より善く生きるためにはより善く死ぬ事も時には必要である。
<單に生延びたいといふ感情は「精いつぱい生きる」とは違ふ。
>だからって、何故「戦争」なのか? よりよく死にたい奴は、とっととひとりで割腹自殺でもしてくれ。そちらの方がずっと人畜無害だろう。
これは No_Z さんのMsg 184に対する返信です
(20歳/男性/jp) 1999年8月30日 13時36分
<しかし二葉亭の眞劍を今の日本人の誰が嗤へるか。
>文学を志す私の立場から言わせて貰えば、この二葉亭の言葉は彼の、文学に対する失望から来る言葉である。もとより、テロルに身を染めるものの真剣さとはわけが違う。
文学には夢中になれぬ、だから戦争だ、だからテロルだ、などと言っているわけではない。彼は依然として文学の力を信じていたのだ。信じていたからこそ、その逆の言葉を吐いたのだ。
ちなみに、テロルも戦争も、「言論を弾圧し、暴力に訴える」と言う性質では、まったくぴったり一致するのである。
これは No_Z さんのMsg 185に対する返信です
小林秀雄の「戰爭について」でも讀むこと。
これは Kubittake さんのMsg 190に対する返信です
> gigugiguさんのおっしゃるとおり、歴史は反省して教訓を活かす為の学問だと思います。そしてその結果、戦争はあってはならないものであると思います。
大間違ひ。歴史を見てくれば、戰爭はなくならないといふ結論以外の結論は出ない。
これは Alien_Life_Form さんのMsg 207に対する返信です
もう小林秀雄は推薦されてゐたのね。ぢやあ福田恆存を代りに推薦しよう。「平和論の進め方についての疑問」「防衞論の進め方についての疑問」を推薦しておく。
それにしても、戰爭は否定するが大東亞戰爭は肯定するなんてダブルスタンダードを平然と言ふ輩がゐるんだ。小林よしのりと一緒。
これは No_Z さんのMsg 209に対する返信です
結局は戰爭が嫌ひだと云ふ事でせう。父祖の戰つた戰爭を自分は戦ひたくないといふのは、父祖の行爲を否定することです。
これは Kubittake さんのMsg 213に対する返信です
>戦争は無くならないが・・・
やつと認めた。
>褒められるべき偉業ではあるまい。
>ま、No_Zがクタバルなら、撃った奴はエライが。(^^;)
暴力を否定しながら肯定するあたりがGらしいが。
これは Dr_G さんのMsg 216に対する返信です
何かを無くすといふことは、向上ではない。
これは gigugigu さんのMsg 217に対する返信です
未来永劫人間は決して戦争を止めはしない。なぜなら、戦争がやれなくなれば、その時人間は人間でなくなる筈だからである。では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるを得ず、己れが正義と信ずるものの為に損得を忘れて不正義と戦ひたがるといふ習性である。即ち、動物は縄張を守る為に戦ふに過ぎないが、人間は自国を守る為に戦ふと同時に、その戦ひが正義の戦ひであるかどうかを常に気に懸けずにはゐられない。これこそ動物と人間との決定的な相違点なのである。(中略)動物と同様、人間も縄張を守るべく戦ふが、動物と異なり、正邪善悪を気にせずにはゐられないから、不義の敵を殺す事になる。それゆゑ、人間がいかなる場合にも戦争をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善悪の別を全く気に懸けぬ動物に堕してゐる筈である。
『戦争はなくならない』(松原正著・地球社刊)より
これは M40A1 さんのMsg 223に対する返信です
(36歳/男性/jp) 1999年9月1日 16時18分
そういったものが習性という言葉に該当するか否かについては一種の文章表現として理解しているつもりです。
「正義とは何か」を常に問い続け、その答えに従い戦う行為自体と、戦争という国家システムとしておこなう行為の関係は、どのように整合性がとれるのか?
疑問点の一つです。
これは matumoto11 さんのMsg 239に対する返信です
と戰爭を定義して、國家に從ふのは良い事なのか惡い事なのかと惱んだ振りをする事は、正義を守らねばならぬと云ふ觀念からの逃避なのであります。
或は反權力は正義不正義の問題を考へないでよいと云ふ根據にはならぬのです。
これは matumoto11 さんのMsg 240に対する返信です
自分の國の正義を信じられないやうならば、人はその國の國民である事をさつさとやめれば良いのであります。そんなにも氣に入らぬ國になんで固執するのか。
>自国を守る為に戦うことと、正義の戦いか否かを問う人間の戦いの関係をどう解釈するのか?
自國を守るために戰ふ事即ち自國の正義のために戰ふ事です。
これは matumoto11 さんのMsg 241に対する返信です
>「戦争をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善悪の別を全く気に懸けぬ動物に堕してゐる筈である。」
>引用の最後の言葉ですが、自分にはこの言葉は安易な反戦平和論が横行する現代に於いてのみ、一種の警句として存在する言葉ではないのかと印象を受けました。
おつしやる通りです。わたくしは戰爭主義者ではなく、反平和主義者です。
戰爭を否定し平和に生きる事だけを主張することは、正義のために戰ふといふ事をも否定するものです。だから私は一概に平和のみに固執する事に反對し、戰ふ事一般を肯定するのです。
私は、生延びるのが大事だと主張するよりも、正しいと云ふ事を主張する方が上等だと信ずるのであります。
これは matumoto11 さんのMsg 242に対する返信です
>>近代の視点から見れば間違いに見えたことも、過去の視点から見てみれば間違いではなかった、そう言うこともあり得るのである。
>まあ、100歩譲って、その時代は正義であったとしましょう。
>ただ、その正義はどちらの側から見た正義か?と言う事が大事なのでは?
近代の視點とか過去の視點とかに關はりなく、自分達のする事は正しいと云ふ信念を持つ事が大事であります。
>ちなみに"歴史”は尊いものだと思っていますよ。不変であるから、過ちを繰り返さないようにするべきだと思います。
過ちは繰返さぬやうにすればよいが、過ちでもなんでもない事を過ちだと思ひ込む愚だけは避けたいものです。戰爭で負ける事は、自國の正義が間違ひであるといふ證據にはなりません。
これは kanegon10 さんのMsg 254に対する返信です
世界史のカテゴリの方でかう云ふ事を書いたので讀んで下さい。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=yahoo.7a.12.835209&topicid=110m01 &n=1&msgid=7qnjbj$3tq$2@m00.yahoo.co.jp
これは No_Z さんのMsg 257に対する返信です
≫絶対に謝るべきではない No_Z(26歳/男性/政治主義大つ嫌ひ) 1999年9月3日 13時38分
戰爭は惡いことではないし、戰爭で負けるのは道徳上の罪ではない。「戰爭犯罪」は成立しません。
さらに言へば、戰爭は他の手段を以つてする政治の繼續――即ち政治の領分に屬するものであります。カイゼルのものはカイゼルに返せ。政治の領分に屬する戰爭の問題は、政治的に決着をつければ良い。それを道徳的な謝罪などといふ手段で解決しようとするのは、道徳の概念を破壊するものであります。
私は道徳といふものにこだはりたい。道徳とは無縁なもののために道徳が奉仕する姿を見たくない。戰爭に關して日本が謝罪するとは、日本人が道徳を否定することであります。道徳の否定だけはやつてはいけない。それは人間の存在價値を否定するものだからです。
これは syuusui さんのMsg 444に対する返信です
……日本人にとつての大東亞戰爭は「八紘一宇」實現の爲の「聖戰」であつたし、ヒットラーもまた、ユダヤ人の拜金主義とインターナショナリズムを激しく批判して、「吾々は永遠のユダヤ主義あるがゆゑに、苛酷かつ容赦のない戰ひをせざるをえない」と主張したのであつた。ヒットラーによれば、ユダヤ人にとつては「個人の値打を決めるのは專ら所有財産や金の力であり、個人の性格とか全體に奉仕する役割とかではない」し、またユダヤ人のインターナショナリズムは「今も昔も民族と國家の破壞要素」だといふ事になつたのである。『戰爭はなくならない』(松原正著・地球社)19〜20ページより
日本人は自分の正義を信じて大東亞戰爭を戰つたのだし、ドイツ人もヒットラーの言ふ正義を信じて戰つた。スターリンもまた、共産主義の爲に肅清を決行した。
勿論それらの「正義」は正しくなかつた。だが正義が相對的なものならば、それらの「正義」が間違ひだつたと言ふ事は無意味である。間違ひもまた相對的なものにすぎまい。
これは gigugigu さんのMsg 260に対する返信です
彈壓されて默つてゐられる方がをかしいですね。敗戰國は戰勝國に正義を否定されても、普通は面從腹背、いつか復讐してやらうと牙を砥ぐものです。
周知の如く、ヴェルサイユ條約はドイツにとつてまことに屈辱的なものであつた。それまでの國際慣行では、戰勝國と敗戰國とが話し合つて平和條約が結ばれる。しかるに第一次世界大戰の戰勝國は、ドイツと協議する事無く、一方的に平和條約の決定案を押しつけたのである。それゆゑ當時のドイツ外相ブロックドルフ・ランツァウは、ヴェルサイユ條約に激しく抗議した。取分け、條約の第二十三條に、戰爭責任は專らドイツにあり、それゆゑドイツは賠償の義務を負ふと明記されてゐるのは、ドイツにとつて我慢のならぬ事であつた。けれども所詮は敗戰國である。ドイツは受諾するしかなかつた。けれどもドイツはその屈辱を忘れなかつたのである。『戰爭はなくならない』20〜21ページより
その後ドイツは、1939年から1945年4月まで、第一次世界大戰の戰勝國に對して徹底的な復讐をやつてのけた。これが當り前の國なのである。
これは gigugigu さんのMsg 260に対する返信です
>私は正義は人が決めているもの、そして常に「変化し続ける物」だと思います。だから「絶対的な正義」はなく、今現在もたくさんの「異なる正義」が地球上には存在しているのだと思います。
>人間にできることは、「自分の中の正義」を信じることだけではないでしょうか?もちろんそれは変化する物ですが、結局は誰もがそうしているのだと思います。
>けれどもそれによって、どんなに頑張っても、現在の状況からしか、物事を考えることができない我々に、過去を断罪して、つるし上げる資格はないと思います。
>「正義」とは、それぞれが「正義だと信じること」ではないかと思います。
だから、大東亞戰爭で日本人が信じた「正義」は間違ひだと言つても意味がないのであります。
これは tori2914 さんのMsg 272に対する返信です
國單位だらうが、個人單位であらうが、正義は正義です。正義は相對的なものだから「生きた正義」も「死んだ正義」もない。「滅びるべき正義」なんて言ふ權利は人間にない。獨善といふが、獨善ならば本気で信ずる事によつてしかそれは善に轉化しない。その上人間の世界にあるのは相對的な正義だけなのだから、さう云ふ獨善的な正義を拒否したら、人間が善を實現する手段は一切なくなる。
國家の正義だらうが個人の正義だらうが、政黨の正義だらうが、正義を區別する必要はない。大事なのは正義を本氣で信ずる事だ。
これは Kubittake さんのMsg 267に対する返信です
>小さい時には、「赤ちゃんはコウノトリが運んで来るんだよ」とか、「サンタクロースがプレゼントを持って来るんだよ」とか、信じちゃう訳で、後から考えれば、馬鹿馬鹿しい事もあるでしょう。確かに、ごたごた言う筋合いではないかも知れませんけど。
クリスマスの朝、靴下の中にプレゼントがあると云ふ奇跡は、子供が成長するに從ひ、奇跡でなくなる。しかし靴下の中に我々の脚があると云ふ奇跡は、子供が大きくなつても奇跡のままである。これはチェスタトンが言つたことです。
確かに世の中には進歩するものがある。しかし世の中、進歩、進歩で片付けられぬものの方が遙かに多いのであります。
これは K_CN さんのMsg 275に対する返信です
戰爭は悲慘なものである、そこでは不正義が罷り通る――それは嚴然たる事實であります。ただ所詮は事實にすぎません。戰爭の本質とは全く無縁のものであります。
交通事故で人が死ぬ、澁滯が起きる、二酸化炭素が放出される――それが自動車の本質ではありますまい。個々の事實をもとに物事を判斷するのは、しばしば物事の本質を見失ふものであります。
これは Kubittake さんのMsg 284に対する返信です
さらに話をこんぐらからせる爲に申します。
>アンティ○○論者は、実際は何もやらぬぼんくらの体たらくの論者である。
ただ○○批判をするだけで終わってしまうくだらない論者である。
>私はアンティ平和主義論者としてのNo_z氏よりも、戦争主義者としてのNo_z氏の方を支持したい。そちらの方がずっとましだ。
より正確に申しますと、私は反平和主義ではなくて、反・反戰主義者なのであります。
これは Kubittake さんのMsg 271に対する返信です
戰爭は憎しみしか生まないのであり、戰勝國も敗戰國も互ひに互ひを憎むのであり、しこりが殘るものです。そしてさう云ふ戰爭を人間は今まで行つてきたのです。
今更戰爭をやめようと言つても、今までに戰爭をしてきたといふ事實は消えない。憎しみも消えない。憎しみなんて水に流せるといふのは、日本人だけの發想です。
過去に戰爭があつたのだから、今後も戰爭はなくならない。
これは gigugigu さんのMsg 306に対する返信です
--------------------------------------------------------------------------------325 件目 正義は相對的 No_Z(26歳/男性/政治主義大つ嫌ひ) 1999年9月4日 15時52分
正義は相對的だから、國家の正義も個人の正義も似たやうなものです。
いかにより良い正義を創造するかなどよりも、いかに眞劍に正義を信ずるかの方が大事であります。眞劍といふことは道徳的で、道徳的といふことは絶對的な價値であるからです。
私は或イデオロギーの立場に立つことを否定し、或イデオロギーの反對のイデオロギーの立場に立つことを否定する――要するにイデオロギーの立場に立つといふ事を否定するのですが、それはイデオロギーを越えた或立場を信奉するからです。その立場とは、人間は人間らしくあるべし、と云ふ立場です。
人間は矛盾の塊だから、「胸すくやうな正論」などは通用しない。矛盾・ディレンマ・アンビヴァレント――さう云ふものに直面しない議論こそ、嘘つぱちなのであります。
これは Kubittake さんのMsg 309に対する返信です
物事は單純に割切れないですから、字面だけ見て批判したりしないでください>皆樣。
私はテロ肯定です。だからと言つてテロ絶對贊成といふのではないことを御承知いただきたい。戰爭肯定だからと言つて、意味もなく戰爭をやれと言つてゐる譯ではないやうに。
『罪と罰』でラスコーリニコフは、一人の金貸しの因業婆を殺すことで澤山の人を救ふことは許されるかと自問自答した。勿論それは道徳的に許されぬことだ。だからラスコーリニコフは悔い改めることを作者に要求された。
少數を犠牲にして多數を救ふのは政治なのであつて、道徳ではない。ラスコーリニコフは道徳の名に於て裁かれた。個人の領域のルールとは即ち道徳のルールである。
だが政治の世界に於ては、少數を犠牲にして多數を救ふのがルールなのである。
これは matumoto11 さんのMsg 320に対する返信です
少數を犠牲にして多數を救ふ政治の世界――政治は萬能ではない譯で、全ての人間の福祉だの幸福だのの面倒をみることは出來ない。
逆に言へば、一人の因業婆を殺すことで澤山の人間が救はれるのならば、それを認めるのが政治なのである。良き政治家とは、善き個人ではない。政治の價値と道徳の價値は別物である。
戰爭も、テロリズムも、政治の領域に屬するものなのである。戰爭とは一部の國民が死んでも多數の(或は絶對多數即ち無でなければよい)國民が生殘れば良いと云ふ發想から行はれるものである。
テロとは一部の社會的な「屑」を排除して、大多數に幸福をもたらさうと云ふ發想から行はれるものである。テロには、純粹に政治であるべきものの中に道徳の顏が覗いてゐる譯だから、不純な面がある。戰爭ほどにテロを擁護する譯にはいかないゆゑんである。
とはいへ戰爭にもテロにも正義がある。ならば兵隊にせよテロリストにせよ、正義を眞劍に信じて戰爭やテロに殉ずることはありうる。そしてその眞劍といふことを、道徳の立場は認めざるをえない。そして眞劍といふ美徳ある限り、道徳の立場は戰爭もテロも認めるのである。
これは No_Z さんのMsg 327に対する返信です
文脈は無視して、自分の言ひたいことだけ申します。
>人間、頭の中で考えた結論によって死ぬということはなかなかできません。戦争中はさておき、日本の中でそのような行為がなされたのはほんの数回であります。
人は自分の思想のためには死んでもよいと云ふ覺悟が必要です。或はなにがなんでも生延びるよりは、正義のために殉じた方が道徳的なのです。そしてさう云ふ事が出來るのが戰爭中だけであるのならば、戰爭は斷じてなくしてはならぬものであります。
>仮に、Kubittake様にそのような行為に至る覚悟があったとしても、行動に移せるかどうかは別であります。よって、生きている人間がそのような言葉を吐くことは慎むべきであります。
何も言はずして行動に移すよりは、何かを言つてそれを守るために行動に移す方が、餘程ありうることです。言行一致といふが、行動が出來ぬのなら言ふなとは言へない。それでは誰もものを言へなくなつてしまふし、何も言はねば行動に移さないでもよいと云ふ事になつてしまふのが困る。
これは matumoto11 さんのMsg 321に対する返信です
>数行の言葉のやりとりではNo_Z様の考え方に対しずっと理解しかねるものがあったのですが、今回はっきり見えた部分が合ったような気がします。
たまに自分の考へをまとめてみると、頭の中の整理になります。matumoto11さんの御質問は自分の主張を改めて考へ直すいい機會になりました。私も自分が何を言ひたいのかを再發見出來たやうな氣がします。
>またよろしくお願いします。
こちらこそよろしく御願ひします。
これは matumoto11 さんのMsg 332に対する返信です
※省略
これは Dr_G さんのMsg 331に対する返信です
私はイデオロギーを憎むが、イデオロギーを信ずる人間の眞劍さ或は不誠實を信じます。
これは Kubittake さんのMsg 337に対する返信です
私は戰爭があると云ふ事は人間が正義を信じてゐる證だと思ふので、悲しい事實だとは思はないのです。ですから戰爭はなくすべきではないと思ひます。
また努力しなければ無くならないといふことは、戰爭を無くすのには無理があると云ふ事を意味しないでせうか。
戰爭を無くすには、人間が正義を重んずるといふことを否定しなければなりません。それは無理なことですし、すべきことでもありません。
これは gigugigu さんのMsg 351に対する返信です
私は一般のテロ行爲について述べてゐるので、その中には確かに正義のためのテロといふものが含まれてゐるから、テロ一般を否定しないと言つてゐるのであります。戰爭についてもさうです。
>あと、これは省かれてテロと言っておられると思いますが、無差別なテロ行為や特に明確な思想の無いテロ行為(犯罪行為)についてはどう思われますか?
意味もなく殺人を行ふ人間がゐたらそれは氣違ひです。しかし氣違ひのすることは、罪でもなんでもないですね。テロや戰爭一般について論ずる際には、考慮に入れる必要はないと思ひます。
これは gigugigu さんのMsg 352に対する返信です
※省略
これは Dr_G さんのMsg 353に対する返信です
だせぇぜ。結局自分の好き嫌いで動いてるだけだろ。
そんなもんに酔える奴は自分のことしかアタマにない
エゴイストだ。すりつぶしてブタのえさにするに限るね。
こういう奴がいるから、戦争は無くならないのさ。
みなが正義なんてものがクソほどの価値もないと
知れば戦争なんていかに馬鹿馬鹿しいか悟るさ。
これは No_Z さんのMsg 355に対する返信です
※省略
これは Dr_G さんのMsg 358に対する返信です
ドクター・ゲーは豚の餌だ。
これは Dr_G さんのMsg 359に対する返信です
ゲーなんて、豚に食はれるにふさはしい名前ですね。
これは Dr_G さんのMsg 368に対する返信です
君、ワシへの恨みで獣の心を取り戻したね。
これでよい。世に正義などは存在しない。
君もこれでリッパな極悪人だ。フハハハハハハ( ̄ー ̄)
これは No_Z さんのMsg 375に対する返信です
オウムの信者は間違つたものを信じましたね。しかし眞劍に信じてゐる事は疑へない。
だが、信じた對象の正邪は、眞劍の眞僞を決定する根據となるのか。或は間違つたものを眞劍に信ずるのはよくない事だから、一般にものを信ずるのはよくないとか、一般に信じられる正義はよくないとか言へるものだらうか。
イデオロギーは思考停止といふが、イデオロギー絶對拒否もまた思考停止にほかならぬのであります。思考停止とは知的不誠實のことで私は認めない。しかし知的不誠實であらうとも、そこに眞劍さが見られるのであれば、それは認めざるをえない。知的不誠實と眞劍とは別物だからです。
これは Kubittake さんのMsg 362に対する返信です
獸は恨まない。
これは Dr_G さんのMsg 376に対する返信です
>「イデオロギー」とは、個人が自由な発想でもって思考するのを妨げるものだと想っているから、○○主義という「凝固した思想」を自分の理念にすることは、自分の信念としてしないのである。
結構な事ですが、ならば論理的に次の言葉は出てきませんよ。
>ただし、歴史は「相対的に」眺めるべきだと私は思う。何故なら、絶対的な歴史観を求める闘争が、悲惨な戦争を生み出す可能性があるからである。
「悲慘な戰爭」とおつしやるからには、kubittakeさんは反戰主義者である事になる。戰爭は善か惡かといふ事を考へない――自ら戒めるところの思考停止にkubittakeさんは陷つてゐる。
もう少し思考を徹底すべきではないでせうか。
これは Kubittake さんのMsg 371に対する返信です
何といふ便利な言葉であらうか。戰爭を始めるのにも、平和を主張するのにも使へるのだから。
これは yuniko99 さんのMsg 374に対する返信です
それはその通りなので、私は常々さう申してをります。
ただ眞の自由とは何かと考へた時に、自由を否定するのも自由であるといふディレンマが浮上するのであります。
自由の奴隷になることは自由なのか。唐木順三はたしか一遍上人について論じた時に、捨てるといふことをも捨てた時、そこに融通無碍の世界が廣がる、と言つてをります。
「自由からの逃走」がファシズムやコミュニズムに繋がることは道理です。だが人間は自由を求めると同時に自由から逃れたがる――さういふ二面性を持つてゐます。そこを認識するのは無駄ではありますまい。
これは Kubittake さんのMsg 385に対する返信です
神のものは神に返せ、カイゼルのものはカイゼルに返せ。
――戰爭はカイゼルのものであります。そこに善も惡もない。
>正義を語る輩は極悪人である。
>そして、自分が極悪であると
>悟った者こそ正義である。
さてさて問題は正義のことなのであります。正義はあるのかないのかなどと問ふのはまことに聞苦しい。森鴎外は書いてをります。
一體道義のことなどを口にすることは聽苦しい。口で忠義立をする程卑しいことはありませぬ。哲學者のTheodor Vischerが云ひましたことにdas Moralische versteht sich von slbstと云ふことがある。道義上のことは言を俟たない。之を口癖にVischerは言つて居ました。(「假名遣意見」)
これは、鴎外の文章を讀めばわかるのですが、道義上のものは存在するのである、といふ事です。「正しい」といふ事を疑ふのは間違ひであるといふことであります。
これは Dr_G さんのMsg 391に対する返信です
>戰爭はカイゼルのもの
ならば正義は「神」のものだ。
カイゼルが口出しできる筋合いのものではない。
疑う者こそ正しさに近づき得る。
そうできないものは極悪人だ。
No_Zよ
オマエは正義を語るパリサイの徒だ。
聖書で何度神の怒りに触れて死に至ったことか。
まだ分からぬか?疑う事もできぬヨワムシめ。
これは No_Z さんのMsg 394に対する返信です
>ならば正義は「神」のものだ。
正義はカイゼルのものです。善惡=道徳が神のものです。
ドクトルはものを知らないんですね。
これは Dr_G さんのMsg 395に対する返信です
>一遍の「捨て」の思想は、信じることをも捨てる、つまり信仰を捨てると言うところを抜きにして語ってはならない。
お坊さんが信仰を捨てたら話になりません。そもそも信仰とは頼るものではない。一心に信ずることであります。「信仰とは、個人の救濟を願ふものではなく、ひたすらに何かをあがめ奉る事である。」
これは Kubittake さんのMsg 396に対する返信です
そんなことを聞かれたら、僕は「悪とは何なのか」と聞き返さなければならない。
戦争を周りの者がとやかく言えるのだろうか。
みんな自分の行動を正義だと信じて戦っている。
悪があるから正義がある、正義があるから悪がある。
正義と悪は向きの違う同じもの。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
>戦争を周りの者がとやかく言えるのだろうか。
戰爭とは國同士の決鬪なのだから、國民があとから自國のやらかした戰爭についてとやかく言へるのだらうか。そいつは天に唾するやうなものではないか。
これは muisiki さんのMsg 399に対する返信です
政治的な良い惡いと、道徳的な善い惡いは、別のものです。しかし我々日本人の用ゐる日本語はこの二つの「惡い」を區別しない。だから日本人はこの二つの「惡い」を區別できない譯です。
この二つを峻別しないから、gigugigu氏の言ふやうに、「結局、正義も悪も無いのですよ。」と云ふ事になる。だが道徳的な惡といふものは確かにある。政治的な「惡」は相對的なものだから、確かに「結局、正義も悪も無いのですよ。 」と云ふことはできる。しかし道徳的な惡は絶對的なものです。政治的な「惡」が否定されても、道徳的な惡は否定されない。
これは gigugigu さんのMsg 401に対する返信です
>戦争のほとんどは一部の権力者の思想や利益の為に起こされているだけで、国民が望んでいる訳ではないでしょう。
いいえ。戰爭のほとんどは、國民が望んではじまつたものです。大東亞戰爭もその例外ではない。或は「一部の權力者」をスケープゴートにして、國民は何も惡くないといつても、はじまりません。
>何が悲しくて、畑を耕していれば、平和で安全な暮らしができるのに、わざわざ遠くの国に攻め込んで自分の命をかけて殺しあう事を望む人がいますか?
人はパンのみにて生くるにあらず。パンだけが大事ならば、却つてこの世は平和ですよ。パン以上のものが大事だから、人は命を捨てて戰ふ。
これは gigugigu さんのMsg 402に対する返信です
>大体が国家により情報操作や強制、信仰によって行われているのでは無いでしょうか?
それを「陰謀史觀」といひます。「トンデモ」の發想に近い。
>無理矢理や情報操作でやらされた戦争に文句も言えない社会は独裁政権か軍国主義の国ぐらいなのでは?
いいえ。
今、日本で「戰爭は正しい」と言つたら氣違ひ扱ひされます。しかし戦争反對と言へない社會が否定されるのならば、戦争贊成と言へない社會もまた否定されるのではないですか。
いやいや、今の日本の社會こそ、「無理矢理情報操作で」戰爭に反對させられてゐる社會なのではないか。
これは gigugigu さんのMsg 402に対する返信です
>人を殺すことは悪であるはずです。
>敢えて短絡的なことを言えば、政治とは自分の飯を確保する為に人殺しを正当化するものではものではないでしょうか。
敢へても何も、その通りです。
>政治における善悪とは、自分の飯を得るために、道徳的な理想を放棄するということに立脚しているもの、その程度に留まるものではないでしょうか?
いえいえ、政治において、善惡は成立しないんですよ。
>やはり、真の善とは道徳にこそ求められるべきものでしょう。
さうです。しかしそれは政治を道徳が裁くことではない。政治に屬するものは政治が扱ひ、道徳に屬するものは道徳が扱ふ――それが正しいことなのです。キリストの「カイゼルのものはカイゼルに、神のものは神に返せ」と云ふ言葉は、政治と道徳を峻別すべきことを言つてゐるのであります。
だから政治に屬する戰爭を、道徳が裁くのは許されぬことです。
これは onnaski さんのMsg 407に対する返信です
>>gigugigu氏の言ふやうに、「結局、正義も悪も無いのですよ。」
>これは政治的な善悪についてですね。やっとNo_Zさんの政治的な相対主義の意味がわかりました。両方の国から見て自国は正義だと言う事での戦争は仕方がないと言う意味で良いのでしょうか?
人間が動物と異なるゆゑんの一つが、正義を信ずるといふことです。だから「自國の正義」だらうがなんだらうが、人間が正義を信ずること、正義のために戰ふことは肯定されます。
>道徳的には善悪はあると言う事ですが、戦争行為自体はやはり悪なのでは、政治的考察は省き戦争行為(殺し合い)自体についてですが。
戰爭から政治を削つて物事を判斷する料簡がわかりません。或三角形を確定するには、幾つか方法がある。例へば二邊とその挾角を確定すれば一つの三角形が確定する。gigugiguさんは、挾角を拔いて二邊だけで三角形を確定せよとおつしやつてゐるやうなものです。物事を論ずるには、最低限必要な要件があります。戰爭を論ずる時に、政治を拔いてはお話になりません。
これは gigugigu さんのMsg 411に対する返信です
>>戦争のほとんどは一部の権力者の思想や利益の為に起こされているだけで、国民が望んでいる訳ではないでしょう。
と云ふgigugiguさんのテーゼが、私の批判の對象であります。しかるにgigugiguさんのお答へは「日本人の選民思想」批判に移つてしまつてをります。ちやんと「戦争のほとんどは一部の権力者の思想や利益の為に起こされているだけで、国民が望んでいる訳ではない」ことを證明していただきたいものであります。
これは gigugigu さんのMsg 412に対する返信です
>>大体が国家により情報操作や強制、信仰によって行われているのでは無いでしょうか?
問題は幾つかの實例に於てどうかではなく、「大體」の方にあります。「大體の戰爭」がどんなものであるかは、3つ4つの實例を擧げただけでは論證として不十分ですね。
>これだけでも十分情報操作、信仰によるものでしょう。
いやいや、これだけならば「情報操作、信仰によるもの」といへても、その他が全てさうであるとは限らない。
>古来より民を従わせるには情報を知らせない事が一番です。だから専制国家や軍国国家は情報の選抜を行うこれはすでに情報操作では無いですか?
情報操作にひつかかるのなら「トンデモ本」の讀者と一緒ぢやないか。話が面倒になつてきた。
これは gigugigu さんのMsg 413に対する返信です
性的な興奮を覚えます、善悪で判断してはいけないと思う。
なぜなら人間は所詮少し頭の良い動物に過ぎないんだからね。
「戦争は悲惨だ」なんて自己憐憫に似た考えは捨て去りましょう。
哲学などのもったいぶった学問なども忘れたほうがよろしい
銃弾一発で死ぬような人間に哲学など必要ありません
セックスと生死が人間の真骨頂です、違いますか?他に何がありますか?
素晴らしい芸術もいつかは朽ちるし音楽にしても同じです。
地面を這いずり回り反吐を吐きそれでも生きていく人間は
とても素晴らしいですよね、そして死に直面した時の
その悲劇はなんとも官能的です、テレビを見て感じませんか?
戦争で足をなくした人や、火傷を負った少女を見て
感傷の涙を流す・・・なんて自己満足な毎日・・・
楽しいですよね、平和な世界でこんな素晴らしい
ショーが見れるんですから、これほどいい世の中はありません(笑)
とにかく戦争は官能的ですよ、セックスと同じくらいにね。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
>人間は弱い動物ですから、自己正当化しなければ何も出来ないと言う一面があるでしょう。動物であれば目的は生きる為ですが、人間は違いくだらない、理由で殺し合いをしている馬鹿な動物ですし・・・。
動物のやうなただ生きるためだけの生が上等だといふ考へ方は捨てた方がよろしいかと存じます。「人はパンのみにて生くるにあらず」。或は正義を否定することは、人間を動物に貶しめることです。正義は決して「下らない」ものではありません。
>聞きますが、1対1の決闘も小さな戦争と言えますよね?という事は喧嘩も戦争と言えるのでは、物事を大きな視点で見るだけではなく小さな視点で見ること、あるいは必要なのでは?
政治とは關係ありませんね。或は私ならば、「戰爭とは國家同士の決鬪である」といひます。ちなみに『三銃士』を讀めば、西歐流の決鬪とはいかなるものかを理解出來ます。
これは gigugigu さんのMsg 417に対する返信です
>私は専門家ではないのですべての戦争の起因を知っている訳ではありません、私が知っている戦争の起因の例を一部では駄目だ、これではそもそも議論にすらならないのでは?
これでは突飛な例えですが、ここに空を飛ぶ機械があります、しかしこれは特殊な人にしか扱えません、それではこれは空を飛ぶ道具ですか?
突飛な譬へでは、譬へにならぬのですよ。或は、自分の知識は少ないが、その範圍ではかういふ結論が出る、そこで止めておけばよい。しかしその特殊な事例を一般化することは許されない。
あなたは戰爭の「惡い」側面だけを見て、それを宣傳してゐます。「同じ事でも良い事だけ流すのと悪い事流すのとでは話がまったく変わってくるでしょう?」gigugiguさんも、自分が「情報操作」をやつてゐると云ふことを自覺なさるが良いのです。
これは gigugigu さんのMsg 418に対する返信です
戰爭を美學で語つてはならない。或は戰爭の美を云ふのは、グロテスクなものを美と呼ぶ獵奇的・倒錯的な行爲です。
これは richard_ward さんのMsg 419に対する返信です
戰爭をする人間は阿呆である。だが阿呆は美しい。戰爭は美しい。
あなたの論法はこれです。こんな3段論法は一瞬にひつくり返ります。戰爭をする人間は必ずしも阿呆ではない。
これは richard_ward さんのMsg 426に対する返信です
名前変えましたよ、これからはこれでよろしく。
>>戰爭をする人間は阿呆である。だが阿呆は美しい。戰爭は美しい。
馬鹿は美しいとは言った覚えはありませんよ。
彼らが繰り広げる戦争というものが美しいというのです。
戦争が無ければ彼らはただの平凡な人間でしかありませんよ。
戦争があるからこそ、彼らは美しく大義名分という名の元で死ねるんです。
しかし戦争をする人間は馬鹿ですがね、その馬鹿を操ってるのは
私達先進国といわれる国の人間たちでしょう、わかります?
つまり私達は馬鹿の大親分という事ですよ。(笑)
>>あなたの論法はこれです。こんな3段論法は一瞬にひつくり返ります。戰>>爭をする人間は必ずしも阿呆ではない。
必ずしも阿呆ではないなんて、あなたも戦争肯定者ですか?
どんなに素晴らしい頭脳を持っていても人を大量に殺すように
命令を下すような人間は私から見たら気が狂った馬鹿としか
思えませんけどね、貴方は違うんですなぁ、おもしろい(笑)
これは No_Z さんのMsg 427に対する返信です
映畫『アラビアのロレンス』で、ロレンスが怒りにかられてトルコ軍を襲ふシーンがある。トルコ軍は撤退中で、實に慘めな姿をしてゐるが、それを襲つたロレンスの部隊は、勝利のあと、實に慘めな樣相を呈してゐる。
>戦争があるからこそ、彼らは美しく大義名分という名の元で死ねるんです。
大義名分は美とは無關係だ。それは正義といふ觀點からしか論じられない。
>必ずしも阿呆ではないなんて、あなたも戦争肯定者ですか?
私は戰爭肯定派です。すると、あんたは「戰爭の美」を皮肉な意味で使つてゐる譯か。すなはち戰爭肯定派は氣違ひだといふイメージを、讀者に與へるために氣違ひを裝つてゐたのか。
これは ward_ward さんのMsg 428に対する返信です
>戦争は、自然資源を浪費し、人間環境を破壊する。人類の寿命を著しく縮める行為であるという点において戦争は絶対「悪」である(ただし、人類が長生きすることがかぎりなく「善」であるという前提を必要とする)。
その前提は既に2000年前、イエス・キリストによつて論破されてゐますね。
これは marimoneko さんのMsg 431に対する返信です
美を信じた芥川龍之介は、プロレタリア文學の前にあつさり敗れました。美は正義の前に無力です。そしてプロレタリア文学は共産主義が古くなると同時に消滅しました。正義は相對的です。
戰爭を論ずる道具としては、正義でも美でも持つて來るがよい。しかし戰爭が惡ではないといふには、根據として道徳を必要とます。
>わたしは戦争肯定でも否定でもありませんよ
>戦争にたいする私の考えを述べているに過ぎません
>「戦争は私にとって美しいと感じた」とね。
……、なんで私の「論敵」には、「これは個人的印象だ」とか、「これは誰それが言つてゐることで自分の考へとは關係ない」とか言つて逃げるやつばつかりなのだらう。
自分の意見として引用したからには、それに責任を持つのが筋といふものでせうに。或は、引用する際にそれが自分の思想とどう關係するのか、豫め説明しておく必要があるのである。
――それにしても、ward_wardの文章には美が感じられないねえ。美を論ふのならば、それにふさはしい文體があるだらうに。
これは ward_ward さんのMsg 433に対する返信です
>なんでもかんでも引用すれば良いってもんじゃありませんよ(笑)
ええ、引用するならば責任を取る必要があります。私は責任をとりますよ。無責任なのはあんた。
>わざわざ昔の常用日本語文字を使えば美しいのなら小学生が書いた文も美しいでしょうな。(笑)
正統表記を誹謗して耻ぢないのは、その人間に論理性が缺如してゐる證據です。然るに、私と論爭をした相手は、論理的に言返せなくなると必ず正かなづかひに八つ當りします。
これは ward_ward さんのMsg 439に対する返信です
>だから子供にとっての「悪」とはなんですか?
子供にとつての惡とか大人にとつての惡なんてありません。惡は惡です。質問が幼稚です。
>人それぞれによって「悪」の概念は違うじゃないですか
惡は一緒です――そもそも善惡は概念ではない、絶對的な價値である。人それぞれによつて異なるのは正義のみ。ゆゑに正義は相對的であり、價値ではない。
>あいにく誰かさんのように他人の論を引用する気はないので
私のことだね。しかしwardは、自分が過去一度も他人の影響を受けずに自分の論理を完成させた譯ではない、と云ふことを自覺するやうに。
人は、自分の思想を自分だけで完成することはできない。人は常に他者の影響のもとに己の思想を作り上げるのである。自分だけの思想なるものは幻想である。
ならば、引用の多寡はその人間の思想の正當性と無關係であることは自明の理である。或は他人の説を引用することは、その人の思想が間違ひである證明にはならない。
これは ward_ward さんのMsg 445に対する返信です
人が人を殺すことが絶對に間違ひだと言切れるのはなぜか?
知性が少しでもあるのならば、なぜ、なぜ、と疑ふがよいのである。
>戦争の当事者には、破壊と憎しみと悲しみ以外、何も生みだしはしない。それが次の紛争の種になるのです。
それは本當か。知性があるならば疑ふがよいのである。「當り前」と思考停止するのは知的怠惰である。
>想像力が豊かであれば、自分が戦争に参加するのが嫌なはずです。
知性があるならば、好惡と善惡が一致するか、疑ふがよいのである。
>戦争が悪である事は明白です。
知性があるならば、戰爭が本當に惡なのかどうか、疑ふべきである。「明白」と言つて思考停止するのは知的怠惰である。
これは pirohiro さんのMsg 450に対する返信です
長々と論證御苦勞樣。出發點が間違つてゐるから、無駄でしたが。
>まず善悪と言う物を教えてあげよう。
>動物と言う存在は、全て
>自分と、自分の直系の子孫には善を施す様に出来ている。
>……
>自身と自身の子孫に善を施さねば、動物は生き延びることは出来ない。
>だからこそ人間も善を持っている、それを良心と呼ぶんだよ。
動物の本能と、人間の道徳は異なるものである。
それから、「動物と言う存在は、全て自分と、自分の直系の子孫には善を施す様に出来て」ゐる譯ではないし、動物がさうだといつても人間がさうだとは限らない。
pirohiroさんの「出發點」には、これだけの疑ひ――と云ふよりも、明白な間違ひがあるのである。pirohiroさんはもう少し知性を磨かれるがよろしい。
これは pirohiro さんのMsg 457に対する返信です
>それじゃ人間がこの世に一人しか居ないとするよ。
無意味な假定ですね。
>誰が善と悪を絶対的に判断するのかな?
なぜ判斷する必要があるのかを考へてゐませんね。
>>人それぞれによつて異なるのは正義のみ
>「正義」と言うのは、他人に対して自分の事を善と受け取らせるために作られた言葉でしかないよ
>それくらい解れよ。
意味不明な囘答ですね。
>だからさぁ、なんでそう言うわけ?
>人の影響を受けた事が無いなんて言ってないだろうに(笑)
「ぼくそんなこと言つてないよ」子供の言ひ譯です。
これは ward_ward さんのMsg 463に対する返信です
>ただし今回だけね、何回も重複して答えるのは
>時間の無駄だし、面倒だから。
重複して投稿してますよ。
これは ward_ward さんのMsg 465に対する返信です
これは正義よりも生存の方が大事だといふ考へ方ですが、これはキリストの「人はパンのみにて生くるにあらず」といふ考へ方と眞向から衝突します。
即ちクリスチャンの國の人間は、平和は必ずしも善いものではなく、戰爭にも意味があるといふ考へ方に慣れてをります。一方「命あつてのものだね」の國日本に住む日本人に、正義の爲の戰爭といふ發想はない。
だが日本人的な發想が世界に通用するかといへば、する譯がない。通用するのならば日本が大東亞戰爭で負ける事はなかつた。世界はキリスト教と云ふ、生存よりも正義を上位の價値と認める人間が支配してゐる。その現實は認めるべきである。或はなぜ彼等が世界を支配するに至つたかをよく考へて見るがよいのである。
これは matumoto11 さんのMsg 488に対する返信です
キリストの神は慈愛の神であると同時に峻烈な神である。新約と舊約とで神の性質は全く反對である。いやいやキリストも、エルサレムの神殿に店を開く商人どもを蹴散らしたのである。キリストは單なる愛の人ではなかつた。
それからクリスチャンはイスラム教を邪教とし、十字軍を送つたのである。それは單なる商業的な利益追求の爲のものではなかつた。
さらに、黙示録は強烈な復讐の書である。罪を犯したもの、キリスト教に敵對する者を、神は徹底して斷罪すると黙示録は述べてゐる。
然るに日本人は、キリスト教の苛烈な神を持たぬ代りに、絶對的な天皇を作り出したのである。それは明治時代の、西歐導入の爲の方便であつた。勿論天皇はGodと違ひ、人間であり、相對的なものであり、大東亞戰爭敗戰と同時に轉けるやうな弱い存在であつた。
しかし天皇が轉けて日本人は西歐的な絶對者を信ずるやうになつたか。却つて相對的で日本的な「和を以て尊しとなす」の思想だけが蔓延るやうになつただけである。日本人は明治時代に比べて、西歐をよりよく理解したとは言へないのである。
これは gigugigu さんのMsg 490に対する返信です
Aという人はパンをたくさん持っており、Bという人はパンを持っておらず空腹だった。そこでBはAからパンを奪うべく戦争をしかけた。
この時、Aにとっては自分を守るための戦争、Bにとっても自らの命を保つための戦争、それぞれ、その戦争を正しい事と思っている。しかし、ここで空腹であるBに、AやAの友人たちが少しずつパンを分けてあげればBは戦争する必要は無かった。
戦争はそれぞれの主義、主張また利益の奪い合いである。
戦争という行為は悪だが、そのきっかけとなるものは悪でも正でもない。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
戰爭は帝國主義戰爭だけではありません。日本は帝國主義戰爭しかしなかつたからそれを理解しないだけです。
これは geveor さんのMsg 492に対する返信です
>明治から大正にかけての一時代日本人にとってキリスト教は一種のユートピア思想として受け止められていた側面があります。
>牧歌的とも言える優しげな思想として理解をしたのではないでしょうか。
むしろ日本人は、日本人好みに變形されたキリスト教を眞のキリスト教だと思ひ込んだ節があります。そこに日本人の西歐受容に對する甘さがあり、同時にやんはりと西歐を拒絶せんとする姿勢が現れてゐます。
日本人は西歐を崇拜しながら、西歐の根本的な部分を拒絶しようとしてゐるのではないか。或は日本人はどこまでいつても日本人のままでしかありえぬのではないか。そしてさういふ曖昧な態度が、大東亞戰爭の悲劇を生んだのではないか。
これは matumoto11 さんのMsg 494に対する返信です
>>一方「命あつてのものだね」の國日本に住む日本人に、正義の爲の戰爭といふ發想はない。
>戦後の日本人に関しては確かにそうですが、もし、「命あつてのものだね」の国だというのならば、忠臣蔵や神風特攻隊のような殉死が起こり得ないはずですが、それはどう考えますか?
昭和20年8月15日を境に、正義一邊倒の日本人が、「命あつてのものだね」一邊倒の日本人になつたことが問題なのであります。
>また60年前の日本兵は、「大東亜共栄圏構築のため」という正義を信じて戦ったのではないですか。これは、「正義の爲の戰爭といふ發想」ではないのですか?
大東亞共栄圏とは所詮「みんな仲良く」と云ふものでしかなく、平和主義者のインターナショナリズムと同樣に、正義の名にも價せぬものです。ただ戰中の日本人がそれを正義と信じて戰つた事にのみ意義があります。
これは massalaca さんのMsg 498に対する返信です
> つまり、戦前は「正義の爲の戰爭といふ發想」は日本人にあった。
なかつたと思ひます。ちなみに、日清・日露の兩戰爭とも自衞戰爭でしたが、自衞戰爭に正義は必要ありません。攻められたら守る――それは正義によるものではなく、本能的な行動です。
> しかし、「大東亞共栄圏構想」は、「正義の名にも價せぬもの」。なぜなら、「大東亞戰爭は帝國主義戰爭だつた」からである。
大東亞共栄圏構想そのものが所詮は帝國主義的發想なんです。或は帝國主義など現在のインターナショナリズムと正反對のやうでゐて同じ穴の狢なのであります。對等か、上下關係か――いづれにせよ、究極の目的は世界を一つにしようといふことだから、やつてゐることは同じです。「みんな仲良く」――そんなもの正義でもなんでもありません。
これは massalaca さんのMsg 501に対する返信です
これでgigugigu氏が實はイデオロギー大好き人間であることが明かになりましたね。
>では、侵略戦争に在ると・・・?
餘所の國を侵掠するのには大義名分が必要ですね。
>では、問います。
>何が正義?何が正義の戦争なのですか?
小賢しい質問です。或は森鴎外も言ふやうに「一體正邪と云ふことを説きまするは甚だ聽苦しいこと」であります。正義なんてあるものか――實に嫌らしい言ひ方です。正義はあるに決つてゐます。「具體的」に示せ、なんて言ふものではありません。
戰爭反對の平和主義者には困つたものです。彼等には自分でものを考へる習慣がない。だから平和憲法なんて云ふ阿呆だら經をおしいただいて平氣な顏してゐられるのです。
これは gigugigu さんのMsg 503に対する返信です
あなたは昔の日本語を使うのか
失礼だが見にくく、普段使わない漢字ばかりでそちらの意見が伝わりにくい
これは No_Z さんのMsg 504に対する返信です
一つの局面からしか見ることのできない人は
自分の主張を他人にはわからない勝手な論理や
他人の論を引用してあれやこれやと誤魔化すものです。
あと自分が頭良く見えるように
昔の言葉使ったりしますよね
恥ずかしい奴らだ・・・。
悪だとか善だとか
それは結局人間が作ったものでしかない
人間がいなくなればそんなものは無くなるでしょう
「戦争は悪か」だって?問いかけ自体が間違ってるよ
「戦争とはなにか?」ならわかるけどね。
これは TOSHIKII さんのMsg 1に対する返信です
あなたはアインシュタインに、普段使はない數式ばかりでそちらの意見が傳はりにくいと言ふのですか?
「現代かなづかい」「常用漢字」は間違つた日本語なので、私は使はないのです。
http://come.to/kotobakotobakotoba/
これは era_bryan さんのMsg 509に対する返信です
それだけでその人物に知性がないことがわかります。
それにしてもこの文章、「自分が頭良く見えるように」vavueくん自身見せかけてゐることが、一目瞭然ですね。
これは vavue_ さんのMsg 510に対する返信です
>餘所の國を侵掠するのには大義名分が必要ですね。
大義名分と正義は違いますよね(前も書きましたが)
>>何が正義?何が正義の戦争なのですか?
>正義はあるに決つてゐます。「具體的」に示せ、なんて言ふものではありません。
”決まっています。”と言う言い方は可笑しいと言っていたように記憶していますが・・・。
具体的に示せない事に説得力があると思うのですか?
それじゃ、おれが正義といえば正義なのだ、独裁者の言と
同じになるのでは?もう一度、再考いただけませんか?
>戰爭反對の平和主義者には困つたものです。彼等には自分でものを考へる習慣がない。だから平和憲法なんて云ふ阿呆だら經をおしいただいて平氣な顏してゐられるのです。
今の貴方の言では主語を変えてそのままお返しできますよ。
これは No_Z さんのMsg 504に対する返信です
なぜなら、正しいことなんか世の中にはないと言つた瞬間に、その人は何が正しいのかを論ずる資格を失ふからだ。
これは gigugigu さんのMsg 526に対する返信です
日本人は善惡を道徳的觀點から決定しようとしませんね。常に好き嫌ひで決めようとする。日本人の良くない點です。
これは rdjamie さんのMsg 531に対する返信です