(20歳/男性/日本國) 1999年9月23日
5時48分
2002年以降、新しい学習指導要領が実施されます。
3桁のかけ算は扱わない、4桁の足し算は扱わない、比について扱わない(a/bがa:bであることを扱わない)、円周率は3.14でなく「およそ3」と教える(なんぢゃそりゃ? 子供に嘘っぱちを教えるのか?)、・・・など、もう辟易させられる内容です。
小学生の学力低下が懸念されないでしょうか? 計算も出来んような小学生が現れます。小学生が莫迦になります。そもそも、漢字配当表の問題など、小学校の学習指導要綱はめちゃくちゃですが、それに更に拍車がかかります。
このままでいいのでしょうか?
(20歳/男性/日本國) 1999年9月23日
7時12分
日本の国語教科書には、文部省官僚の作った漢字配当表という奇矯なものがあって、それによって国語の教科書を作っています。従って、
「右の二まいの写しんについて、次のことをくらべて、ノートに書き出してみましょう。(中略)ノートに書き出したことをもとにして、二まいの写しんについてせつめいする文章を書いてみましょう」
なんていう、変な文章が横行する。
二年生で教わる漢字の中に「記」「語」「読」「話」を習う。ところがその漢字の構成要素である「言」は三年になってから習う、という矛盾を生じます。
さらに、小学校の教科書にはローマ字教育と言うのがあって、四年生に"tukue"などと書く技術を身に着けさせる。しかし、「机」は六年になってから習う、という莫迦みたいな喜劇もあります。
――日本語を何だと思っているのだ!
これは Tenngutake さんのMsg 1に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月26日
15時58分
國語國字問題專門家 ^ ^ として一言。
漢字は見たり書いたりする機會が多ければ多いほど覺えられるものです。しかし日本の教育では、子供が漢字に接する機會を出來うる限り減らす、といふ方針が一貫してあります。これでは子供が漢字を覺えられません。
然るに日本の社會では、どこへ行つても漢字にぶつかります。漢字を覺えなければ困るのは子供です。子供のうちは樂をさせておいて、大人になつてから苦勞させようといふのが今の教育です。間違つてゐます。
漢字教育法に關しては石井勲夫氏の『漢字興國論』(日本教文社)がおすすめ。石井氏は受持の小學1年生に「漢字で」教へる教育を行ひ、小學校6年になるまでに覺えるべき漢字を1年間で全部覺えさせてしまひました。落ちこぼれは一人もゐませんでした。なのに文部省から「漢字配當表」に從はなかつたとして、石井氏は怒られたのです。
石井氏は小學校教育に見切をつけ、幼稚園兒教育に轉じました。
これは Tenngutake さんのMsg 7に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月28日
5時49分
漢字配当表はそれを疎外する。「町」は一年で教えるが、その漢字を構成する「丁」は三年でやる。これでは漢字を合理的に憶えられません。これは国語に限らず、どんな教科でも同様です。筆算を憶えたら、二桁も三桁も一緒くたにやってしまった方が遙かに効率的です。
教科書作成側も少しは知恵を絞ればよい。例えば、「写しん」「せつ明」なんていう日本語にあらざる言葉を平気で教科書に掲載するのは宜しくない。漢字配当表をなくせばよいのだが、それがなくならないのだったら、写真とかいて、真に「しん」とふりがなを打てばよい。大人だって読めるけれど書けない漢字があるのです。「範疇」なんて、読めるけれど書けない人が多いんぢゃないでしょうか?
ちなみに、漢字配当表が適用されるのは「国語」のみ。算数でも社会でも、漢字配当表に従わぬともよい、となっております。「郵」は配当表では六年に振り分けられた漢字だが、五年の地理(地図を読むの項において)で郵便局と書いても全然平気。配当表は文部官僚の自己満足です(利権が絡んでたりして)。
これは No_Z さんのMsg 96に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月28日
16時31分
日本語の文章が讀めない子供には、一切の教育が出來ません。だから小學校低學年では國語を最優先で教へねばならないんです。しかし日本の教育界には、それがわかつてゐる人が全然ゐないんですね。
子供に漢字を覺えさせるのはかはいさうだ――漢字を覺えないで大きくなつたら、子供は苦勞します。あとで子供が泣くんです。それに小さい子供ほど、喜んで漢字を覺えるものです。
日本語教育を等閑にする傾向は、最近は幾分緩和されてゐますが、まだまだ教育界に根強く殘つてゐます。
Tenngutakeさんが書いてをられるやうに、漢字は合理的に教へられるんです。そして漢字が讀める子どもは教科書が讀める。教科書が讀める子供は勉強をどんどん進めていける。さう云ふ子供は最初に泣いても、あとで笑へるんです。子供のことを考へるならば、他の教科は後囘しにして、國語(就中漢字)を最優先で教へるべきです。
これは Tenngutake さんのMsg 108に対する返信です
(31歳/男性/北海道−福井県) 1999年9月28日
18時25分
読める子が勉強をどんどん進めていくかどうかはわかりませんが、少なくともできない子というのはまず読めない子です。中学生でもそう。問題が理解できなければ解けるわけがない。教科書も暗号文になる。
漢字については措くとしても、読んで何が書いてあるかはわかるように教育せねば(音読できても意味が分からない子は多い)。
それから、「教えるのはここまで」というのでなしに、「ここまではできるようにする」というのが必要なわけで、例えば算数で3桁の計算を教えないとかいうのはおかしいと思う。(2桁は必ず扱えるようにする、というのならOK)
これは No_Z さんのMsg 117に対する返信です
1999年9月29日
3時56分
(とはいいながら、私の言葉は変かもしれませんが、)
No_Zさんのおっしゃる通り、国語は全ての基本だと思います。
私は、現在アルバイトで中学生に理科を教えておりますが、3年生は作用・反作用なんかでつまづきます。内容としては、
「人が壁を押す力」と「壁が人を押す力」のように、主語と目的語を入れ替えたような関係ですが、それでも困惑するようです。
江戸時代の寺子屋の基本が「読み・書き・ソロバン(計算)」であったように、小学校低学年の身につきやすいうちに、早めに習得させてあげたほうがよいのではないかと思います。
言語に関しては、国語のみならず英語も同様ですね。私は中学校までアルファベット26個もきちんと知らなかった位ですから、覚えるのには非常に苦労しました。早いうちにやって欲しかったと今でも思っています。
私の田舎は地方ですから、小学生用の塾など当時は近所に(10km以内)ありませんでしたからね。ましてや、私立の小中学校なんて論外です。
これは No_Z さんのMsg 117に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月29日
7時5分
・・・「1、話すこと・聞くこと」、「2、書くこと」、「3、読むこと」、この三つの能力を育てることが目標として打ち立てられていますが、僕が解らないのは、その目標の中で「書くこと」を「読むこと」よりも上位に据えていると言うことにもあります。文章どころか漢字さえもろくに読めもしない人間に文章を書けなどと言うことほど馬鹿らしいことはない。書くことと読むことの順位を入れ替えるなどと言うのは、悪い冗談にしか思えません。
この良い戯画が「詩の教育」です。日本語の美しさを知る上で、詩は勿論素晴らしいものです。良い詩をどんどん読ませるがいい。ただ、それを授業で一律に書かせることに何の意義があるのでしょう。美しい詩をどんどん読ませればいいのに、「詩を書け」などと言う。文章も読めない小学生に、圧倒的な言語感覚を要する詩が、果たして書けるのか? 国語の授業量が決定的に少ないのに、尚、輪を掛けて、「詩を書かせる」「ローマ字教育」などというバカげたものが幅を利かせる。
文部省は、日本語を失墜させたいようです。
これは No_Z さんのMsg 117に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月29日
17時36分
>「1、話すこと・聞くこと」、「2、書くこと」、「3、読むこと」、この三つの能力を育てることが目標として打ち立てられていますが、僕が解らないのは、その目標の中で「書くこと」を「読むこと」よりも上位に据えていると言うことにもあります。
日本人の子供は毎日日本語を聞かされてゐますし、日本語で喋ってゐます。だから「聞く・話す」は教へる必要がありません。大事なのは「讀む」ことです。讀めれば書けるやうになります。字を書けるが字を讀めないといふと云ふ事はあり得ません。
「聞く・話す」を學ぶ必要があるのは、外國語教育のみです。普段接する機會のない外國語を習ふ時、言葉に慣れるために「聞く・話す」は意識して學ぶ必要がある。母國語の學習では必要ない事です。
どうも文部省は英語と日本語の學習法を混同してゐるやうに思ひます。
これは Tenngutake さんのMsg 126に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月29日
19時19分
>日本人の子供は毎日日本語を聞かされてゐますし、日本語で喋ってゐます。だから「聞く・話す」は教へる必要がありません。
<でも、「聞く・話す」と言う当然のことが出来ていない若者はたくさんいます。まぁ、これは学校教育以前の問題ですが。
思うに、最近の若者(まぁ、おいらも若者だが)を見るに、論理的な筋道を立てて物事を話すと言うことが出来ない、と言うか、むしろ意識的に避けているところがあります。彼等は少し難易度の高い話題をこちらが繰り出そうとすると、「解らん」と平気でほざく。解らんなら解らん自分をどうにかせい、と言いたいところなのですが、それを言うと今度は決定的な一言を浴びせられます。「お前、理屈っぽいんだよ」。
論理的な筋道を立てて物事を語る能力を身に着けるためには、論理的な筋道のきちんと通った文章を国語教科書に採用しなければなりません。ところが、小学校の国語教科書は、プロの書き手が書いたものもあるにはありますが、相変わらず教科書編纂者自身が書いたみょうちくりんな文章や、子供の書いた駄文を載せています。
これは No_Z さんのMsg 129に対する返信です
(31歳/男性/北海道−福井県) 1999年9月29日
19時52分
実際のところ、文学教育か道徳教育になっている場合が多い。教科書に載っている文章もそう。
だいたい、登場人物(または作者)の気持ちは?などという問題をやらせるようなのがどうして国語なのか。日本語の読み書きを教えるのが国語ではないのか。外国語を教える時にはどんなにレベルが高くてもそんなことは問題にしないではないか。そういうのは〇〇文学者という人たちがいうことだ。ろくに読み書きもできない小中学生にさせることではない。
これは Tenngutake さんのMsg 130に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月29日
20時24分
>日本語の読み書きを教えるのが国語ではないのか。
<この発言は、半分当たりで半分間違いです。国語には読み書きを教える目的(←勿論、最初に重心が置かれるべきはこっちです)の他に、論理的な筋道を立てて物事を語る訓練をするという大切な目的があります。特に論理的な文章を「読むこと」によってそれを育てるわけです。
ちなみに、「登場人物の気持ちは?」などという問題に○×を附けるのはどうしたっておかしいですね。読書感想文にしてもそうです。子供たちが野球をしたとします。しかし、その時「野球をした後の感動を作文しろ」などと言われたら、子供は野球自体が嫌いになってしまいます。
これは T8848 さんのMsg 133に対する返信です
1999年9月30日
2時31分
>ちなみに、「登場人物の気持ちは?」などという問題に○×を附けるのはどうしたっておかしいですね。
これは誤解です。国語の「問題」として考えたときは、答えは必ず1つに絞られます。前後に必ず気持ちを表す言葉が出ています。「息を呑んだ」とかね。そこから、最もふさわしいものを想定するのです。だから、探偵ものと同じですね。
問題なのは、そのような問題が、「想像力を養う」目的にはそぐわないことが理解されず、「この答えと同じように感じられないのは感性がおかしい」かのように指導されることです。単なる論理的思考能力を見るためのものなのに。
もう1つの問題は、まずは答えを1つに絞りやすい説明文や論説文を題材に論理的な読み取り方の基礎を教えて、次に、答えを絞りづらい詩や物語文を題材にすればいいのに、その手順を省いてしまうことです。
つまり、目的の共通理解がないことと、目的と題材の組み合わせがよくないという問題なのです。
これは Tenngutake さんのMsg 139に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月30日
9時42分
>そのような問題が、「想像力を養う」目的にはそぐわないことが理解されず、「この答えと同じように感じられないのは感性がおかしい」かのように指導されることです。
<うん。そうかも知れん。描写を辿り、登場人物の心理を論理的に注意深く辿って行く作業は確かに有意義です。だが、それでも答えは必ずしもひとつにはならない気がします。
ちなみに、選択問題ならば、普通に問題を作成すれば、答えは確実にひとつになります。どうしてもというならば選択問題にすべきです。
ちなみにこれは高校の入試問題の話ですが、井上ひさしという作家が、自分の作品(多分小説でしょう)が高校入試の問題に使われていたと言うことで、その問題を解いてみたことがあるそうです。結果は惨憺たる有様だったらしい。
これは massalaca さんのMsg 149に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月30日
12時18分
高校や大學の入試問題は、想像力とは無縁のものです。そこに書いてある文章から讀取れることだけが問題になります。小説が出題された場合、原作者が何を考へて書いたかではなく、書かれた文章から何が讀取れるかがきかれます。
要するに「受験テクニック」をマスターしてゐることが入試問題を解くためには必要なんです。
ただこの「受験テクニック」は意外や論理的思考の訓練にもなるのであります。文章に書いてゐないことは讀取つてはいけないといふのが「受験テクニック」の基本中の基本です。しかしそれは、資料の檢證などを行ふ際には必須の技術となります。
かうした思考の訓練が出來てゐないと、「オカルト」を信じたり、「南京虐殺」を信じたりするやうになります。
これは Tenngutake さんのMsg 151に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月30日
12時20分
昔は指導要領以上のことを子供に教へると教師は文部省から怒られたさうです。(『漢字興國論』石井勲著)
今はどうなんでせうね。低レヴェルの指導要領でも、それが「最低ライン」を指示したものならば一向に構はない――困るのはそれを「上限」としてしまふことです。
これは Illyria さんのMsg 153に対する返信です
1999年9月30日
12時44分
今でも、文部省は指導要領以上のことをやると怒るのではないでしょうか。例えば中学校入試問題で指導要領の範囲を超えているものについて、問題視しているはずです。
しかし、ご引用されている文献には、どんな例が載っていましたか?学校現場で教師が指導要領以上のことを教えることはいっさいまかりならんと文部省が指導しているとすれば、その指導は実情無視のものでしょうね。
私は、指導要領が「最低ライン」なのか、「上限」なのかについては、よく判りません。しかし、入試問題や教科書の内容は、事柄の性質上「上限」でしょうね。はっきり第○学年はここまでで、それ以降は次の学年でやると指導要領にかかれていたら、○学年でやる内容以上のことは、例えば「○学年用教科書」には載せるべきではないでしょう。
他方、現場の指導は、もっと柔軟であって良いと思います。授業の流れで、子供の理解度に留意しつつ次の学年ですべきことに触れることは、大いにあり得ると思います。しかし、本格的に取り上げすぎて、結果的に、別の学習しなければならないことがきちんと出来なかった・・ではいけないと思いますが。
これは No_Z さんのMsg 155に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月30日
14時58分
>文章に書いてゐないことは讀取つてはいけないといふのが「受験テクニック」の基本中の基本です。
<僕は小説好きですから行間を読むのは結構好きなんですけれど、行間を読み過ぎてテストで間違ってしまうと言う経験を高校時代によくしていました。
しかし、こと小説について言わせて貰えば、行間を読むことが小説を読む快楽なのではないでしょうか。作者も、行間を読ませることに快楽を感じているはずです(僕も実は愚劣ながら小説を書く者なのです)。行間を読んではならん、僕は高校時代、国語の教師にそう教わってきましたが、こんな教え方はおかしい。読書の楽しみがなくなってしまう。
ちなみに、「オカルト」を信じるのは「不自由への意志(←説明するには少し誌面が足りぬ)」が人間にあるから、「南京虐殺」を信じ込むのは左翼的文化人の「日本悪玉史観」的煽動が行き届いているから・・・どちらも国語教育の所為ではありません。
これは No_Z さんのMsg 154に対する返信です
1999年9月30日
15時26分
論理性を養うならまず説明文や論説文を題材にすべきです。解釈の多様性を楽しみたいなら、文学作品でやればいいのです。
ところが、国語の先生は、文学畑出身が多いので、どうしても文学偏重になる。だから、文学を題材に論理的思考の訓練をするというアクロバティックな事になってしまう。
小論文も起承転結でやれ等と、無理難題。言いたいことがストレートに伝わることが大切なのに、「印象深い書き出しを心がけよう」などという的外れな指導も。含蓄があることは、文学では大いに結構なことですが、小論文では良くないことなのです。おまけに要約不可能な「天声人語」を要約させたり。
「書きたいように書けばいいんだよ」「話すように書けばいいんだよ」なる作文指導もよくされますが、これもまちがい。読む側に誤解されない文章を書かなければいけないのです。
で、強引にトピックに戻りますが、算数や数学はその論理力を養う上でとても大切な科目です。証明とか、確率とか、集合とか大事なのになあ、義務教育課程から外れちゃうのかなあ。だとしたら残念。
これは Tenngutake さんのMsg 161に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月30日
15時30分
既に述べた通り、石井勲夫氏は小學1年生に小學6年までの漢字を全て教へてマスターさせたことを文部省に咎められました。
さて小學校にせよ中學高校にせよ、テストは下限であるべきですね。次の段階に進む爲の學力チェックなのですから、最低限取るべき點數を取つてゐない生徒を合格にしてはなりません。
そしてテストで合格點を取る爲には十二分の學力が必要なのだが、教育者はさう云ふ常識を持つてゐないのか。目標と合格點に差があつてよい。高い目標を目指すことで、合格水準をクリアする。それでよいではないか。今の教育では、合格水準=目標と勘違ひしてゐる教育者が多すぎる。
これは Illyria さんのMsg 156に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月30日
15時34分
日本語の美しさを教えるためには優秀な小説家の小説や或いは本物の詩人の詩を読ませる、更に古文や漢文などを教えることも必要です。それを偏重するのも問題です。そこんところは無論、微妙な匙加減でやって行くんです。
>小論文も起承転結でやれ等と、無理難題。
<そんなことを教師に教わったのですか? 起承転結なんて無理難題もいいところです。特に素人が気取って「転」などをやったら絶対に駄目です。必ず論理がめちゃくちゃになります。
論理的な文章を書くためには三段構成が一番良い、僕は高校でそう教わりましたが・・・、起承転結を推進している教師がいるとは、呆れます。
>算数や数学はその論理力を養う上でとても大切な科目です。証明とか、確率とか、集合とか大事なのになあ、義務教育課程から外れちゃうのかなあ。だとしたら残念。
<その通りです。残念でなりません。
これは massalaca さんのMsg 167に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年9月30日
15時49分
「子曰はく云々」を昔の子供は「火の玉喰ふ」と覺えた。それがなんだかさつぱりわからない。しかし成長してある日突然悟るのである。悟つて理解するのである。それが教育だとまでは山本夏彦氏も書いてゐないが、さう言つてよからうと思ふ。
小學生に詩を作らせても、面白がるのは大人の側だけです。無駄です。小學生にはいい文章を澤山讀ませればよいのであります。それも出來れば漢文の素讀がよいのだが、今更それは不可能です。何より漢文を教へられる大人がゐない。
明治の日本人には漢文の素養があつた。だから明治の文人の文章は現代の文學者の文章よりも上等なのであります。かつて日本人は日本語のお手本として漢文に學んだ。今の日本人は漢文を捨て、英語を學ばうとしてゐる。だが漱石ですら、漢文は理解出來るが英語は理解出來ぬと言つてゐるのであります。
日本人は英語を學んでなに人にならうとしてゐるのか。
これは Tenngutake さんのMsg 170に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月30日
20時47分
>小學生にはいい文章を澤山讀ませればよいのであります。それも出來れば漢文の素讀がよい
<うん。その通りですね。漢文の素読、と言うことはつまり、日本語特有のリズムのようなものを身体に憶えさせよ、と言っているわけですよね(違っていたらごめんなさい)。明治の漢文崩しの文章などがよいような気がします。ただし、厳密な文法などはやる必要はないでしょう。ただ、声に出して読ませればよいのですから。
そこらへんの話でもう一つ。詩について。
国語の教科書に掲載されている詩は、大抵自由詩です。しかし、自由詩よりも定型詩を読ませた方がよいような気がします。箸にも棒にもかからぬ(とまでは言いすぎですが)現代詩人の自由詩を読ませるよりも、日本語のリズムを大切にした定型詩を読ませた方がずっとよいと思うのですが。
これは No_Z さんのMsg 173に対する返信です
(20歳/男性/日本國) 1999年9月30日
21時0分
>日本人は英語を學んでなに人にならうとしてゐるのか。
<その通りです。授業内容が過密すぎる、とぶつぶつ言う人間に限って、小学校から英語の基礎を、などと言い出します。
例えば、4年生の国語の教育に「ローマ字で書いてみよう」などという奇怪な章があって、「まど」を「mado」と書かせる。でも、4年の教科書に於いて「窓」は教えない。まったく莫迦らしい限りです。
ローマ字で「mado」と書く能力を身に着けることが、「窓」と書く能力を身に着けるよりも大切なのかなぁ?
これは No_Z さんのMsg 173に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月1日
13時28分
森鴎外の文章は、讀んで聞かせるだけでもそれだけで國語の教育になるのだと、唐木順三が書いてゐました。
難しい文章に慣れれば、易しい文章も讀めます。しかし易しい文章しか讀んでゐないと、難しい文章は讀めません。子供に今樂をさせると、子供は後で泣くことになります。
>国語の教科書に掲載されている詩は、大抵自由詩です。しかし、自由詩よりも定型詩を読ませた方がよいような気がします。
子供でも大人でも、本來言葉自體の音を面白がる事は出來る筈ですからね。子供のうちから言葉の面白みを知つておくことは大事だと思ひます。
尤も、大人になつても駄洒落しか言はない醉拂ひになると困りますが ^^;
これは Tenngutake さんのMsg 178に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月1日
13時38分
ローマ字教育は百害あつて一利無し。即刻中止すべきものです。或は日本語の表音化、漢字廢止がローマ字教育の目的であります。然るにローマ字は片端の日本語です。漢字かな交じり文の方が日本語表記に適してゐる事は明かになつてゐます。ローマ字教育は國語教育の盲腸であります。さつさと切除すべし。
おまけにローマ字式の發音に慣れる事は英語教育の障碍にもなる。子供にローマ字などと云ふ僞物を教へるくらゐならば、本物の英語を教へた方が増しです。
これは Tenngutake さんのMsg 179に対する返信です
1999年10月1日
20時33分
>既に述べた通り、石井勲夫氏は小學1年生に小學6年までの漢字を全て教へてマスターさせたことを文部省
に咎められました。
2年生の漢字くらいならともかく、ちょっとやり過ぎな気がします。6年生の漢字をマスターさせるために、他の学習すべき内容はどれだけ削ったのでしょうか。
>目標と合格點に差があつてよい。高い目標を目指すことで、合格水準をクリアする。
政策論として、それはあり得ないことはないでしょうね。しかし、現実の学習指導要領は、達成されるべき基準であって、達成されないこともあるかもしれない「高い目標」ではないのです。
これは No_Z さんのMsg 168に対する返信です
(31歳/男性/北海道−福井県) 1999年10月1日
22時4分
それ以上のことを教えたってかまわないはずですが、実際の現場ではどうなのでしょう(前の方でも話題になりかけていたけど)。
でも学習指導要領が達成されるべき目標(合格基準)なら、実際にはそれ以上のことを教える必要があるのではないでしょうか。100点満点、合格60点以上というテストをするには100点分を教えなければならない。60点分だけを教えて全員60点取らせようなんて不可能です。
これは Illyria さんのMsg 187に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月2日
21時41分
>2年生の漢字くらいならともかく、ちょっとやり過ぎな気がします。6年生の漢字をマスターさせるために、他の学習すべき内容はどれだけ削ったのでしょうか。
全く削つてゐません。正しい教育法によつて教へるならば、目標を引下げる事なく高度な内容を子供にマスターさせる事は可能です。
或は、教育法の改善によつて目標を達成せしめるのでなく、目標を引下げて達成せしめるのは、全うな教育とは言へません。
これは Illyria さんのMsg 187に対する返信です
1999年10月4日
9時13分
>正しい教育法によつて教へるならば、目標を引下げる事なく高度な内容を子供にマスターさせる事は可能です。
全ての先生方が、そうした「正しい」教育法を行えばよいですね。もっと、広報して、文部省でも、そうしたメソッドは採用するよう働きかけを行うべきですね。
しかし、ご引用の先生の技量が大変優れ、それ以外の教員にはマネが出来ないようなものであるならば、無理でしょうけれど。
No.Zさんのおっしゃりたい気持ちはよく判りました。有り難うございました。
これは No_Z さんのMsg 198に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月4日
14時17分
>しかし、ご引用の先生の技量が大変優れ、それ以外の教員にはマネが出来ないようなものであるならば、無理でしょうけれど。
「石井式漢字教育法」は誰にでも實踐出來るやうなものです。石井勲夫氏の漢字教育については下に纏めてあります。
http://user2.allnet.ne.jp/noz/ISHII/kokugo.html
それから、下は保田與重郎と中川與一の對談です。國語教育について非常に示唆的です。
http://user2.allnet.ne.jp/noz/YASUDA/nihonnokokoro.html
これは Illyria さんのMsg 201に対する返信です
(25歳/女性) 1999年10月4日
19時42分
先人たちの猿真似っていってた人がいるけど
真似なくして現在の文明は成り立ってないと思う。
模倣はいけないことだ、みたいな風潮があるけど
円周率とかはないと困る。私は職業的に円周率が
3と3.14の違いで売っているものが数千万円違ってきます。
これは No_Z さんのMsg 207に対する返信です
(22歳/女性/神奈川県) 1999年10月4日
23時46分
文字数制限に引っかかってしまったので2つに分けます。
常用漢字はあっても良いと思うのですが、こだわりすぎるのも変ですよね。
難しい漢字があればふりがなをふれば良いと思うのですが、
平仮名にしてみたり挙げ句の果てに別の漢字をあててみたり。
例えば、ニュースでよく見る「ら致」。「拉致」なら一見して単語だと分かりますし、
絶対に単語としても覚え易いと思うのです。(あまり良い例でもないですが)
最近ですと、「被爆」、「被ばく」。爆発したでもなし、「被曝」が正しい筈です。
「被る(こうむる)」+「曝す(さらす)」=「被曝(さらされる)」
これは Tenngutake さんのMsg 1に対する返信です
(22歳/女性/神奈川県) 1999年10月4日
23時47分
漢字は表意文字なので、ちょっと慣れると漢字から大凡の意味が理解できたりします。
多分子供に言葉を教えるにしても、その方が都合が良いのではないでしょうか。
現に私はそうして多くの言葉を覚えました。(イントネーションの間違いはよく指摘されますが)
今はワープロがかなり普及していますからハネ、トメ、書き順は必ずしも必要でないかも知れません。
しかし、単語を知っていること、正しい漢字が使えることは以前にも増して重要になっています。
だとしたら、小さいうちから良い文章に触れる機会を与えることこそが教育ではないでしょうか。
別に全部覚えずとも、その子が必要だと思った単語から覚えていけば良いのです。
これは tanukiinu さんのMsg 212に対する返信です
(15歳/男性) 1999年10月5日
1時1分
私はあくまでも、学問として書きました{事実そうです}
確かに、実社会のことを言ったら限がないでしょう。
猿真似だからいけないのです、それを自分なりに理解して、それに対して
何かしらの考え持ち、うのみにしないということです。
すぐ金だから・・・そういう問題じゃないでしょう。
ないと困る??意味がわかりません。
これは ringolin さんのMsg 208に対する返信です
1999年10月5日
5時8分
大賛成!
「こん虫」だの、
「大たい骨」だの、
「被ばく」だの、
「補てん」だの、
「ら致」だの、
見苦しいちゅうねん。
バカにすな!
丸谷才一を始め、多くの知識人たちが指摘しています。
これは tanukiinu さんのMsg 213に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月5日
18時0分
小學生に學問は早いです。そもそも學問の前提となる知識を小學生は學ぶ必要がある。知識の習得に「なぜ」は要らない――猿眞似で十分です。
或は、譯もわからず學んだことが、ある日突然理解される――小學生の勉強はそれでよいと思ふ。
これは yutakakizawa さんのMsg 215に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月5日
18時6分
「覺せい劑」は正しくは「覺醒劑」なのですが、平假名で書いて印象を惡くしてゐます。閑話休題。
>「こん虫」だの、「大たい骨」だの、「被ばく」だの、「補てん」だの、「ら致」だの、
これで讀む手間が省けると思つてゐる人は馬鹿ですね。讀者はみな、「昆虫」「大腿骨」「被爆」「補填」と頭の中で假名を漢字に直しながら讀むんです。ならば表記を「簡單」にすることで、讀者には餘計な負擔がかかつてゐると言ふべきでせう。或は、表音主義者は、書くのに手間はかからないが、讀むのに手間がかかるやうにしてゐると言へよう。
これは hidepopZZ さんのMsg 218に対する返信です
(22歳/女性/神奈川県) 1999年10月5日
18時52分
被ばく→被曝です、最近話題になっているのは。
場合によっては被爆もありますが。
(しつこいですね、すいません)
これは No_Z さんのMsg 221に対する返信です
(26歳/男性/言葉 言葉 言葉) 1999年10月5日
19時38分
>被ばく→被曝です、最近話題になっているのは。
「被爆」とやらかしたのは、いかにも私らしいと云ふ事で、見逃してください ^ ^;;;
これは tanukiinu さんのMsg 224に対する返信です
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