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ホーム:芸術と人文:哲学、思想:君が代、ダサすぎるで!

流行歌を國歌にするより餘程よい

そんなにダサイ歌がいやなら、宇多田光の歌を國歌にすれば?――しかし最新のはやりの歌を國歌にしても、半年たてばダサくなる。君が代みたいな古い歌がダサくて當然でせう。別にダサくて何の問題もないと思ひますけど。


ダサイつて死語ではないんですね ^ ^

馬鹿だなあ

暗いといふから惡いんぢやない? 君が代は落着いてゐて、大人の雰圍氣があると言へばいいんぢやないかなあ。大相撲ぢや千秋樂の表彰式で君が代が歌はれるけれども、あれ聽いて自殺したくなつた日本人なんて一人もゐないよ。

まあ、君が代は暗くて阿呆な「制度」だなんて、天皇が人殺しだなんてダサダサの左翼思想を信じてゐる舊人類の發想だね。

君が代がなくなつて、日の丸がなくなつて……

まあ、最後にはみんななくなるんでせうな ^ ^

とにかく何でもなくせば世の中よくなるもんですかい。
何にもない世界が理想の世界――空の空といふ奴ですか。みなさん、禅宗の坊さまみたいですな。

アンケートは萬能か

正しい思想の持ち主は間違つた思想の持ち主よりも少ないものですよ。

それにしても、「君が代」は古めかしくて「ダサイ」と半世紀も教へ込んでゐれば、みんな「ダサイ」と思ひ込むやうになります。なるに決つてゐます。「君が代」は「ダサイ」と言ふ人が増えたのは、洗腦の結果といふべきです。

しかし「君が代」をなくせといふ人の言葉はみんな下劣ですね。言葉に對する感覺(センス)がないのに、自分には和歌を論評する權利があると思つてゐられるのは何なんでせう。

君が代批判を批判する

作られた「世論」も確かに「世論」ではあります。ただ敗戰までは皆日本人は「君が代」はよいと思つてゐた譯ですよね。それが或日、突然ひつくり返つたのはちよつと異常な出來事ではなかつたでせうか。

「君が代」は惡いといふ意識が全くない状態から、「君が代」を惡者にする教育など一切なしで、にもかかはらず漸次「君が代」は惡いといふ意識を持つ人が増えていく――と云ふのならば「時の流れ」と云へます。

しかし事實は、戰後は「君が代」を惡者と決めつける教育が行はれました。教育者といふのは日本國民の一部でありますが、その一部の人間が子供に「君が代」は惡いと云ふ思想を教へ込んだ。これを私は「洗腦」と呼ぶのです。

それから、私に「センスがないからとかいうあほらしい理由をつけて批判する権利はない」のならば、當然、他の人にも「ダサイ」といふ「あほらしい理由をつけて批判する権利はない」ですね。

>でも今の政府の国旗・国歌に対する行動は本当に暴走による暴挙としか考えようがありません。

今の政府を辯護すると――君が代・日の丸反對論者の行動もまた暴走してをり、政府にはさうした反國家的行動を抑へる義務があるから法制化は當然の結果である、法制化の原因は君が代・日の丸反對論者の側にある――と言はざるをえません。

非常に不思議

私は君が代が大好きですけれども、今の時代、少數意見は抹殺されるべきなのでせうね。

それから、疑問に思つたんですが、「君が代」は大東亞戰爭に利用されたんでしたよね? 何で歌ふと暗くなる歌が戦意昂揚の役にたつたんですか? 何で歌ふと「やる気無くして、とても勝てたものでは」なくなるやうな歌を、戰爭に利用したんでせうね。

もし歌ふと戦意を無くす歌なら、平和の爲にもつと皆「君が代」を歌ふべきではないでせうか ^ ^

半分冗談を書いたら、本氣で答へて貰へました

>そんなはずないでしょう。君が代を歌う会をわざわざ弾圧する人はいないでしょう。勧誘しないで欲しい人は多いでしょうけど。

「君が代」飼殺し作戰ですね。

>兵隊さんじゃなくて、現地民を皇民化するにあたり、天皇への忠誠を
>誓わせる意味で歌わせたのでしょう。憶測ですけど。反抗する気が萎
>えてくれれば、丁度いいですね。

「天皇への忠誠を誓はせる」と云ふ積極的な目的に使へて、「反抗する氣が萎える」と云ふ消極的な目的にも役立つ――「君が代」つて、器用な曲なんですね。

>「我が代」でも、いいでしょう。品位は多少落ちますけど。

いいですねえ、現代日本の得意技――愚民政策にはもつてこいです。國民どもよ、お前ら、自分達を讚へて醉拂つてゐろ、つて言ふんですね。確かに平和主義の國日本を謳歌する太平樂の日本人どもにはお似合ひだ。

「君が代」に代る歌

>「我が代」でも、いいでしょう。品位は多少落ちますけど。

この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へば

「上を向いて歩こう」

>「上を向いて歩こう」を第2国歌に

私の世代では、あれは既に古臭い、「ダサイ」歌と云ふ事になつてをります。

自分が偉いと思ふ人間

>何物の権威にも屈さない不屈の人間たちといって欲しいな^^;

それあ言ひたいところですけれども、人間は自分以外に權威を求めないと、自分自身を權威だと言ひ出すんです――即ち傲慢に陷るんです。

>権威や権力に頼らない、自我の独立した大人の集団
>その権威やらのしたで、惨めな思いをしている人間
>に思いをはせることのできる人間たち。
>ひとの心の痛みを感じ取ることができる人間。

もしそんな理想的な存在に、今すぐ人間が變はりうるものならよいのですが、人間はそんな理想的な存在ではない。
權威打倒を叫び、理想社會を作らうとした思想は全て恐怖政治に陷つてゐます。これは歴史を見れば明かです。

權威打倒を叫ぶ人間を信用出來ないのはさう云ふ理由からです。

言ひかへれば、權威に屈しない事と、悲慘な人間に同情する事は無關係です。

人間は弱いままでよいのか

>よらば大樹(天皇)の陰ってば^^;

權威は單によりかかるべき對象と云ふだけではない。權威は努力目標になる。權威者から認められるやうに努力する事で、はじめて人間は立派になる。

>ほんとは、天皇に寄りかかって強いとこみせたいんでしょ。>君!!

天皇を努力目標にして、強くならうと努力すべきだと主張してゐるんです。
人間は強くあるべきです。臆病・虚弱・柔弱は自慢にならない。なる譯がない。自分が馬鹿である事を誇るのが馬鹿であるのと同じやうに、自分が弱い事を誇るのも馬鹿である。

日本國には言論の自由がある

>日本独特の年号って邪魔ですよね。
>……
>早く廃止して西暦一本にすればええのにね。

統制狂の意見ですね。

偉い人は存在する

私は、人間が自分を偉い人間だと言ふ事は異常だと言ひました。それは人を傲慢にするからです。
しかし私は、人間が他の人間を偉い人間だと言つて尊敬する事は立派な事だと思ひます。それはその人が謙虚である證だからです。

人間は自己以外に權威が必要であり、西歐では絶對的な神がゐるからいいが、日本には相對的な天皇しかゐない。日本の文化の弱點はそこにあるが、しかし今更西歐的な文化を採用する譯にはいかないから、日本人は天皇を戴いてやつて行くしかない――と云ふ事です。

西歐精神を日本人は身につけられるか

>なぜ「相對的な天皇」で代わりをつとめさせようとするのかがわかりません。
>代わりのものだと思っている限りは本物ではありえません。

だからそれが日本の文化の弱點です。

>西歐の精神を一から学び身につけるべきだと思う。私には不可能とは思われない。不可能とあきらめることは、代わりのものへの絶望に終わるのではないかと危惧します。

しかし相對的な基準しか持たない日本人が、絶對神を戴き絶對的なものを信ずる西歐人の精神を身につけるのは不可能です。和をもつて尊しとする日本人が、正邪善惡を峻別する西歐人みたいになるのは無理です。
私は日本人の精神と西歐人の精神は相容れぬものだと言つてゐるのです。

日本人は西歐を淺薄な理解しか出來ないが、それでやつて行くしかないし、天皇と云ふ「代はりのもの」でやつて行くしかない。本物なんて得られやしない。

絶對者と無關係の例

>リストラで首にされて自殺した奉公サラリーマン、お国のためにと死んだ特攻隊。彼らの態度は、絶対的なものに対するものです。

会社が潰れれば社員の忠誠心は無意味になります。昭和20年8月15日を境に特攻は「馬鹿で無謀なこと、殘酷なこと」になりました。

そんな簡單にひつくり返ることのどこが絶對的なものですか。日本人は相對的なものを絶對的なものだと信じこむ事は出來るが、本當に丈夫でひつくり返ることのない絶對者の概念だけはついに生み出さなかつたし、信じることも出來ない。

西歐人のキリスト教精神

>そもそも、西欧精神といっても、もとはギリシャ合理精神とヘブライズムであり、西欧の土着のものではなかったのです。日本人にできない理由はありません。後をたどる分だけ西欧よりやりやすいはずです。

無理ですね。少なくとも今日明日や10年20年で出來ることではない。

既に述べたやうに、日本人に絶對者の概念はない。西歐はそれまでの總ての文化を捨てて漸くキリスト教精神を受容れた。
私は日本人が日本の總ての文化を捨ててキリスト教を受容れることは可能だとは思ふ。しかし日本の文化は捨ててしまつてよいほど價値がないものだとは思はないので、それには反對である。

運動は困る

>こういう運動をひろめていったらどうでしょうか。

個人でやるなら勝手ですが、他人を卷込むのはどうかと思ふ。

>また、起立しないだけではなく歌を邪魔するとか
>いろいろな方法で反対することができます。
>みんなの力でこの歌を葬り去りたいですね。

「みんなの力」と優しい言葉の割に、やることは汚いですね。

理不盡なことをする權力者?

>権力者が自らの権力を実感するためには、なるべく理不尽な行為を強要するに限ります。

さう云ふ、火中の栗を拾ふやうなことをする權力者は馬鹿です。そして權力者は皆さう云ふ馬鹿であると思ふのも馬鹿です。馬鹿がどうして權力を握ることが出來るのか、權力を維持することが出來るのか。それを考へないのだから、馬鹿に決つてゐます。
そもそも凡庸な權力者ならば、自らの權力を實感する以前に、權力を維持することを考へる。本當に愚かな權力者ならば、自らの權力を實感し、それで滅ぶだらう。眞に賢明な權力者ならば、權力を擴大・安定させるのに力を注ぐだらう。

私は、日の丸君が代法制化は合理的だと思ふから、小渕首相は馬鹿ではないと思ふ。今から豫言しておくが、小渕政權は豫想以上の長期政權になる。多分2000年は無事乘切るだらう。

それから小渕首相は決して權力欲があつて首相になつたのではないと斷言する。

日の丸・君が代法制化の主體は誰か

□□さんは、日の丸・君が代法制化は文部省主導だと考へてをられます。私は小渕首相、野中官房長官或は内閣主導だと考へてをります。

――一體、日の丸・君が代法制化の主體は誰か。

若氣の至りを自慢すること

反抗期に自分の反抗のいい根據を見つけたと云ふだけのことですね。

>「君が代」を歌うときになると仲間で騒ぎはじめました。

みつともないことです。