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[殲滅すべし] 昭和12年、1937年7月7日、北京郊外、盧溝橋でおきた日中両軍の衝突をきっかけに、日本と中国は、全面戦争に突入していった。 普通の若者が、愛国、天皇絶対という凶悪な犯罪カルト教義を叩き込まれ惨烈な戦場の中で、平然と人を殺せる兵士に変えられていった。 丁集団(第10軍)命令 (丁集作命甲号外) 12月13日午前8時30分 一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす 一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、 これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す 『第16師団歩兵第33連隊 戦闘詳報』 午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を探索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、船筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。 『第16師団歩兵第33連隊 戦闘詳報』 午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を探索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、船筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。 『南京遡行作戦経過概要』第一掃海隊 〔烏龍山水道より南京下関まで(一二月一三日)〕 一三二三(一三時二三分、以下同じ)前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞戦を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を船艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、全滅せる者約一万に達し・・・・・一五三〇頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の残兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海索を揚収す・・・・終夜江上の敗残兵の掃討をおこないたり。 〔13日夕方〕 各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南方谷地付近において刺殺せしむることとせり。各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。 『国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊 戦闘詳報』 「江興州敗残兵掃討に関する戦闘詳報」 中隊長の計画は図に当たり、午後七時三十分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一戦に投降す。中隊長は兵器と捕虜を区分しこれが整理をおこなえり。 これより先にした支隊長に捕虜の処分、兵器の処置の指示を受けしに、武装解除の後は中隊と共に、捕虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめようとの命あり。(中略)捕虜二千三百五十人。 笠原十九司『南京事件』岩波新書 P158 『南京戦史資料集』(笠原『南京事件』p.143) 一握りの支配者によって 国民の命と、生活のすべてが破壊された。 |