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すでに
脱ダムかダム推進かという程度の問題ではない。
日本はコンクリート中毒の列島と化し、その中毒構造は産業から文化に至るすべての分野を蝕みつつある。
金を投げ与えられるのを口を開けて待つという構造である。
戦後、日本国憲法は、この国の主権者は国民であると高らかに謳い上げた。
だがいま、本質を見ることを巧妙に封じられ、主権者である国民は奴隷に逆転してしまった。

天文学的な借金を背負わされた若者の未来は絶望的である。

これは焼け野原の終末に向かって突き進んだ、あの時代の再現ではないのか。


日本が土木建築に費やす金額は、アメリカが軍事につぎ込む金額よりはるかに大きい。
日本で1995年から2007年までの13年間に予定されている公共事業費は650兆円という狂った金額だ。これは面積が25倍、人口が2倍のアメリカの実に4倍近い。

公共事業が巨大になった理由は、何百億円もの金が政党と政治家に還流する巧妙なシステムが出来あがっているからである。本来なら国民の忠実な下僕でなければならない官僚組織がその還流の分け前に与って巧妙なシステムを更に強固にしている。その結果日本の全産業に渡って取り返しのつかない疲弊が進んだ。
60数年前、狂った日本皇軍と内務省官僚組織が日本のすべてを焼け野原にしたあの暴走の再現である。

日本の建設業界は膨張を重ね、1998年には690万人の労働人口を抱えるまでに膨らんだ。全産業就業者の約10.1%である。これはアメリカやEU諸国の2倍にのぼる。全産業を覆い尽くすこの建設依存構造は実のある成長を生むことが出来ない体質にこの国を変えてしまった。恐るべきことに産業そのものの発展がその構造によって阻止されているのだ。若者や子供の将来を国債や補助金に替えて作り上げた利権システムに未来などあろうはずもないのである。


2001年の日本の建設事業総額はGDPの約13%である。アメリカは5%に過ぎない。公共事業費の割合は更にひどい。日本はGDPの9%を超えるが、アメリカは1%にも満たない。アメリカの10倍なのである。
かって「日本の財政破綻への道は、コンクリートで舗装されている」とニューヨークタイムズは言ったが日本の歳出予算の実に40%が公共事業に充てられている。アメリカでは9%程度、イギリスやフランスでは5〜6%程度に過ぎない。


1994年の日本のコンクリート生産量は約9200万トンだった。アメリカは約7800万トン、面積あたりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約30倍である。


アメリカはダムで引き返した。中国も植林事業で引き返した。
日本は引き返せない。その政策の破綻が自明となっても尚引き返すことが出来ない。官僚の主導でその二つとも激しい破壊をやめようとはしないのである。
アメリカはフーバーダムやテネシー川流域開発公社などの大きな公共事業を押し進めようとした。しかし、ある時点で誤りに気付いて引き返した。
「森の窒息死」と呼ばれる杉の植林を日本は止めることが出来ない。同じような植林事業が失敗したと気付いたとき、あの官僚制のかたまりのような中国でさえ1996年、林業部が見直しを決めた。方向を保存重視に変え伐採と製材規制の新法制定を国務院に要請した。
ミッドウエーを過ぎ、ガダルカナルを通過し、沖縄まで来ているのに日本は止めることが出来ないのである。

緑の森は川によって海と繋がっている。日本の豊穣な自然はその命のサイクルの中で育まれて来た。
狂ったようなダム建設により、日本では海岸線が100メートル以上も後退してしまった。海の生物に取り返しのつかないダメージを与えている。1993年には全海岸の55%が完全にコンクリートブロックやテトラポットで埋めつくされた。
後退し失われていく海岸線はそのまま国民の未来である。


哲学者和辻哲郎が終戦直後に書いた著書「鎖国」の中で「科学的精神の欠如」について指摘している。
「合理的な思索を蔑視(べっし)して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた」この背景には「直観的な事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという民族の性向がある」
和辻によれば日本が鎖国している間に欧米では新しい科学が生活の隅々まで浸透していった。この落差がいまに至るまでそのまま残っている。
米国は終戦に際して日本を「科学無き者の最後」と当時指摘した。
広島への原爆投下の直後、日本の専門家たちは「技術的にできるはずがない」と信じようとしなかったという。




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