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永井荷風 「断腸亭日乗」より。

1928年(昭和3)五月六日 新聞紙は日々共産党員の検挙の事件を報道、、 忽然天保のむかしにあるが如き心地とはなるなり。

1928年(昭和3)十二月ニ日  歌舞伎座初日、、愛国党の無頼漢数名印刷物を場内に撒き、、俳優がロシアに赴きたるを攻撃、

1928年(昭和3)十二月六日
共産党々員捕縛の記事のみ 慶応義塾の書生も検挙

1945年(昭和20年)八月十五日。
「陰りて風涼し。。・・飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。・・午前十一時二十分発の車に乗る。新見の駅に至る間随道多し。駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。・・新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすぴに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。・・午後二時過岡山の駅に安着す。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、・・休戦の祝宴を張り皆ミ酔うて蹴に就きぬ。〔欄外墨書〕正午戦争停止。」



2002−8・ある新聞のコラムより。

「脱ダム」の前知事田中康夫氏の第一声を聞く。
 「日本の背骨、あまたの水源を持つ長野県」の「勤勉誠実で向上心にあふれた県民」とひざをつきあわせて語り合って「開かれた県政改革」を進めてきたのに、「県民にとっては問答無用に近い」県議会の知事不信任!
 「アメリカ大統領も4年の任期で職責を果たしたかどうか審判が下される。私は1年8カ月をもって失格であると退場を命ぜられた」
 もしここで引き下がれば、長野は県庁と土建政治の「夜明け前」の闇に戻るのではないか。というわけで、真夏の知事選に再度、「情報公開、説明責任、住民参加」を掲げての出馬である。

 田中氏の演説で心惹(ひ)かれたのは「8月15日」に触れたこんなくだりである。
 「日本の国民が知らされるべきを知らされないまま戦争を開始し、ついには深い悲しみを味わった歴史の過ちを心に刻み込んだ終戦の記念日です。その日に県民に語りかけるのは歴史の偶然を超えたものと思うのです。」

 長野県政を考えながら思い起こす終戦の日。私は生まれてほどない赤ん坊だったけれど、大人たちも何で戦争が始まって何で終わったのかよくわからなかったに違いない。「情報公開、説明責任、住民参加」が当時の政治体制にあれば、確かにあんな愚かな戦争は起きなかった。」




「県民や知事に
ダムや道路の利権を止められても
戦争という究極の利権があるんだい!」

2002−7




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