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国体護持権と平成有事利道徳
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教育勅語というマントラを叩き込まれ、国体護持の利権固めに駆り出された皇軍兵士にモラルの欠片すら無いのは当然のことであった。

侵略強盗殺人戦争の記憶が遠ざかり、平和憲法が利権体制復活の邪魔になったとき社民党女性議員に対する攻撃が始まった。









中国侵略皇軍司令部は芸者や仲居を日本国内から料亭ごと連れて行っていた。
「教育勅語」や「八紘一宇」の見事な精神ではあった。




近代国家の軍隊で戦場まで組織的に慰安婦を恥ずかしげもなく連れていったのは日本軍だけだった。軍部もさすがに恥ずかしかったのか慰安所の写真、慰安婦の写真はすべ、て禁止としていた。今も、右翼を焚き付けて慰安婦の記述を教科書から消そうとして内外で大恥を掻いているのもその名残りであろう。個人的に高級将校とか軍医の撮影したもの、新聞社カメラマンの作品がわずかに残っているだけである。

 従軍慰安婦が始めて生まれたのは昭和十三年一月十三日か十四日とされているが、はっきりした日時は不明である。ただ、第一号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春所を直轄で開業したのである。 では、なぜこうしたものを設けたか。それは上海、杭州湾上陸の将兵が、強姦略奪しほうだいに南京へ進撃していったからだ。杭州湾上陸の第十軍のごときは、毎日戦闘を繰りかえしつつ、一カ月そこそこで三百キロを走り南京に達したが、その秘密は強姦略奪が目的であったという人もいるくらいだ。

 教育勅語の成果であろうが、「日本兵の去ったあと処女なし」といわれ、東京裁判では、一人の女性を日本兵三十人で輪姦した証言もある。そはともかく、この上海・南京戦線における日本軍の暴行ぶりは、現地の外人宣教師を通じ、上海や南京の外交機間に通報され、さらに外人記者の手で海外へ打電された。日本軍最高幹部は、まず、それにおどろいた。軍の威信にかかわる問題だからだ。このほか、暴行をかさねる将兵のなかへ性病が蔓延するおそれも出てきた。占領後の治安維持、すなわち民心の離反も心配になってきた。こうして南京攻略直後からスタートした慰安所(従軍慰安婦のいる所)は、各地へつぎつぎに設けられ、日本軍のいるところ必ず慰安所があるということになった。昭和十三年四月から軍直営体面上このましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。

 この慰安所のこと、従軍慰安婦のことは日本内地には秘密で、彼女たちの存在がわかる記事も写真もすべて検閲でとめられた。不許可である。
 彼女らの大半が朝鮮から強制的につれて来られた女性であったことが知られるようになったのは、戦後二十年たってからだった。戦争中の検閲のおかげである。 彼女たちのなかには、雲南省騰越、茫市などであったように、皇軍とともに玉砕した者もいるが、玉砕部隊の名は出ても、彼女たちのことは知られないままだった。

 敗戦後、彼女らの大半は現地でポロ屑のように棄てられ、なかには、皇軍兵士に産まされた赤ン坊を背負ってさまよう哀れな朝鮮女性もいた。東南アジアでは、いま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗い女や靴みがきなどしているのを見ることがある。従軍慰安婦は兵隊四十名につき一名の割で配属され、総数は八万余名だった。まことに教育勅語による皇民オカルト教育のけっかであった。


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