最終更新:平成21年5月4日

「皇統の未来を守るオフ」開催履歴:第三十一回~第四十回

★第四十回★
★【皇統の未来を守るオフ@四條畷】★
開催日時平成21年4月29日(水曜日・昭和の日)午後2時集合
集合場所JR学研都市線(片町線)「四条畷」駅改札前
順路四条畷駅~楠木正行公御墓~四條畷神社~住吉平田神社~御机神社~和田賢秀公御墓
~四条畷駅~JRにて京橋へ移動。

           楠木正行公御墓
趣旨贈従二位楠木正行公(小楠公)は、贈正一位楠木正成公(大楠公)の御嫡長子。摂津湊川の合戦を前に大楠公と
桜井駅に別れられてより御雌伏凡そ十年、御父の御遺志を継がれて吉野朝後村上天皇の御為朝敵御討伐に
挙兵されました。

楠帶刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、思ふ樣あれば、今度の合戰は我は必ず討死すべし、汝は
河内へ歸つて、君の如何にも成らせ給はんずる御樣を、見はて進せよと申し含めしかば、其庭訓を忘れず、
此十餘年我身の長るを待ち、討死せし郎從共の子孫を扶持して、如何にもして父の敵を滅し、君の御憤り
を休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめてぞ思ひける。
(『太平記』巻二十五「藤井寺合戰の事」)

河内、摂津に転戦された正行公は、摂津渡辺橋(現在の大阪市中央区天満橋京町附近)で、溺れる敵兵を
救助し治療してお帰しになられたことから、恩義を感じた者たちが公の陣に参じ、のち四條畷まで運命を
共にしたとも伝わります。

渡邊橋よりせき落されて、流るゝ兵五百餘人、甲斐無き命を楠に助けられて、河より引上げられたれ共、
秋の霜肉を破り、曉の氷膚に結んで生くべしとも見えざりけるを、楠情有る者也ければ、小袖を脱ぎ替へ
させて身を暖め、藥を與へて疵を療せしむ。此くの如く四五日皆勞りて馬に乘る者には馬を引き、物具失
へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後ち心を通
ぜん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に屬して後ち、四條繩手の合戰に、討死をぞしける。

(『太平記』巻二十六「正行吉野へ參る事」)

凶徒高師直率いる賊軍と河内四條畷に合戦された正行公は、正平三年一月五日、御奮戦空しく現在の大東
市錦町附近(字ハラキリ)にて御舎弟正時公と刺しちがえて御殉節されました。

正行は左右の膝口三所、右の頬さき、左の目尻、箆深に射られて、其矢冬野の霜に伏したるが如く折懸
けたれば、矢ずくみに立つてはたらかず。其外三十餘人の兵共、矢三筋四筋射立てられぬ者も無りければ、
今は是までぞ。敵の手に懸るなとて、楠兄弟刺違へ、北枕に伏しければ、自餘の兵三十二人、思々に
腹搔切つて、上が上に重り伏す。
(『太平記』巻二十六「楠正行最期の事」)

のちに賊将足利高氏の仔義詮が、正行公御首塚の傍らに己が墓を営むよう遺言したように、忠孝両全を完遂
された小楠公の御生涯は、敵味方の別なく我が国史上の精華として語り継がれ、永久不滅の生命を得て今も
我々に範を垂れ給うています。

今回は、楠木正行公はじめ楠木正時公和田賢秀公ら二十五将士を御祭神とする別格官幣社四條畷神社のほか、
小楠公御墓、和田賢秀公御墓などに参拝し、真善美を合せ具えられた小楠公の御生涯御精神に学びたいと存
じます。

費用交通費適宜。
今回の参加者は10名でした。

好天に恵まれた昭和の日、14時ちょうどに四条畷駅を出発し、まず駅近くの楠木正行公御墓所に向かいます。正行公供養のための碑を建て、傍らに二本のクスを植えたと伝わる場所で、現在そのクスは結合融和して一本の巨樹となり、もとの碑は幹の中に埋没しています。隣には大久保利通公揮毫による「贈従三位楠正行朝臣之墓」の巨大な墓碑も建っています(従三位追贈は明治九年。のち明治三十年に従二位追贈)。一同拝礼して小楠公の忠勇を偲び、皇室の弥栄と国家の安泰を祈願致しました。

正行公御墓所から駅前の繁華街を貫いて飯盛山の山裾まで真直ぐに伸びる参道を歩き、突当りに聳える長い石段を登ると、正行公はじめ楠木正時公和田賢秀公ら二十五将士がお鎮まりになる四條畷神社です。展望所で休憩ののち、一同御祭神に皇室の弥栄と国家の安泰を祈願致しました。さらに境内の散策・学習や授与所での御朱印・御守の拝受等ののち同社をあとにし、山腹の径を通って住吉平田神社に向かいました。四條畷神社の御創建にあたっては、この住吉平田神社の神職が尽力されたとのことです。ここでも一同御祭神に皇室の弥栄と国家の安泰を祈願しました。ついで飯盛山中を巡るトレッキングコースを経て、延喜式神名帳所載の古社である御机神社に至りました。ここでも一同皇室の弥栄と国家の安泰を祈願しました。

御机神社参拝後はゆるやかな下り坂を街中まで戻り、この日最後の参拝地である和田賢秀公御墓に向かいます。賢秀公は楠木正行公の従兄弟にあたられ、四條畷合戦のおり敵の頭目高師直にあと一歩のところまで肉迫されたものの果たせずに討ち取られ、刎ねられた御首が敵兵に噛み付いて離れなかったとの故事から、「歯神様」としても信仰されています。一同拝礼して賢秀公不屈の敢闘精神を偲び、皇室の弥栄と国家の安泰を祈願致しました。

その後四条畷駅に戻り、無事全行程を終えました。





★第三十九回★
★【皇統の未来を守るオフ39】学習会「幕末朝廷史序説」★
開催日時平成21年3月20日(金曜日・春分の日)午後1時~5時
開催場所大阪市立中央青年センター(大阪市中央区法円坂1-1-35)3階A棟5号室地図
大阪市立中央青年センター
趣旨(ナビゲーターより)
激動の時代、幕末。明日の日本のために命懸けで時代を駆け抜けた英雄たちの群像に、現代を生きる
我々も熱い共感を覚えざるを得ません。

ところで、その幕末の政局に、御当代の天皇陛下と皇族様方が大きな役割を果たしておられたことを、
我々はつい忘れがちになっていないでしょうか。民百姓までが時代の波に翻弄されたあの時代に、
天皇陛下や皇族様方が何を思い何を為されたか、当時の政局を知らずして、英雄たちの正確な姿を
理解することは難しいでしょう。

今回は【幕末朝廷史序説】と題し、幕末における朝廷の動きを学習したいと思います。幕末の日本を
生き生きと感じることを目的としますので事前知識は一切不要です。多くの皆様とお話できることを
楽しみにしております。

費用無料。
参加者は、初参加の方3名を含む19名でした。

13時から始まった学習会では、まず幕末を検討する前に弁えるべき江戸期の天皇・朝廷についての基本認識として、「禁中並公家諸法度」における“帝王学”の重視、朝廷の外交権行使、天明年間の「御所千度参り」に見られる民衆の皇室への尊崇などの事例がナビゲーターから示され、教科書や三文学者(佐々木克など)の著書に見られる「江戸時代の朝廷は幕府の支配下に置かれていた」「江戸時代の民衆は天皇のことなど知らなかった」といった愚説が粉砕されました。

その後本論の幕末史に入り、開国と条約勅許、公武合体論と一会桑政権構想などについて孝明天皇が文久の朝廷を強力に御指導になった御様子、中川宮殿下(久邇宮朝彦親王殿下)の御奔走などが史料を通じて紹介され、従来の俗説とは全く違った、朝廷を主体とした幕末史像が提示されました。また、原口清氏の研究等によって孝明天皇弑逆説が最終的に否定される過程の紹介もされました。

今回の学習会によって、新選組も坂本龍馬も出る幕の無い、朝廷を中心とした「真の幕末史」が、朧気ながらその姿を現すこととなりました。それは取りも直さず、天皇・皇室・朝廷を中心とした、回復されるべき【真の国史】の一つの環でもあります。ナビゲーターの方にとっても、参加者の方々にとっても、きっと有意義な学習の場となったことでしょう。





★第三十八回★
★【皇統の未来を守るオフ@阿部野】★
開催日時平成21年2月11日(水曜日・建国記念の日)午後3時集合
集合場所南海電鉄南海線・高野線「岸里玉出」駅「岸里口」改札前
順路南海「岸里玉出」駅岸里口~阿部野神社~北畠顕家公御墓~阿倍王子神社~安倍晴明神社
~阪堺電軌にて天王寺方面。

    阿部野神社 阿部野神社 阿部野神社
趣旨大阪市阿倍野区北畠三丁目御鎮座の別格官幣社阿部野神社は、吉野朝の功臣北畠親房公ならびに
北畠顕家公を御祭神として、顕家公が散華された阿部野古戦場の地に御創建された神社です。

贈正一位北畠准后親房公は後醍醐天皇の御信任頗る厚く、天皇の吉野遷幸ののち大命を奉戴して東国
に下られ王事に御奔走、後醍醐天皇崩御ののち皇位を践まれた義良親王(後村上天皇)の御為に、常陸国
小田城の陣中に『神皇正統記』を著して国の真姿を説かれました。のち吉野に戻られ、正平九年四月十七日
(一説九月十五日)六十二歳にて薨去されるまで吉野朝の柱石として、後村上天皇を助け奉られました。

贈従一位鎮守府大将軍北畠顕家公は親房公の御嫡長子。十六歳で陸奥守に任じられると、義良親王を
奉じて奥州へ下向されてかの地を御平定、足利高氏が朝廷に叛くや直ちに奥羽の騎馬兵団を率いて
御上洛、高氏を西海道に敗走せしめました。延元三年賊軍御討伐のため再び奥州より長駆西上されるも、
同年五月二十二日、御奮戦空しく御歳二十一歳にて御殉節されました。

己が何者であるかを知ろうともせず即物的利己主義に奔る凶徒蔓延る乱世に、不屈の確信をもって歴史を
見据え、皇統の正理を唱えられた親房公と、皇統の未来に殉ずるべく賊の群れに体をぶつけられた顕家公。

今また獣にも似た凶徒の横行する世となったこの国で、邦家の来し方行く末に想いを致すべき建国の日に、
阿部野のみ社に参じ親房公顕家公の大前に額づくことは、大いに意義あることでありましょう。

又の年戊寅の春二月、鎭守大將軍顯家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の國々こと
ごとくたひらぎぬ。伊勢伊賀をへて大和に入、奈良の京になむつきにける。それより所々の合戰あま
たゝびに勝負侍りしに、同五月和泉國にてのたゝかひに、時いたらざりけむ、忠孝の道こゝにきはま
りはべりにき。苔の下にうづもれぬ、たゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。
(北畠親房公『神皇正統記』人巻・後醍醐天皇延元三年条)

費用交通費適宜。
参加者は、初参加の方2名を含む14名でした。

天気予報とは正反対の日本晴れで気温も高く、絶好の紀元節日和となった当日、午後3時に南海「岸里玉出」駅岸里口に集合し、徒歩数分の阿部野神社に向かいました。阿部野神社では、まずは「神は人の敬によって威を増し 人は神の徳によって運を添う」という『御成敗式目』の文言が掲げられた拝殿社頭にて一同御祭神北畠親房公北畠顕家公に対し奉り皇室の弥栄と国家の安泰を熱祷致しました。その後、拝殿横手から続く「御魂振之道」と名付けられた細い参道に入り、御本殿の真後ろに鎮座する奥宮・御魂振之宮の広前に進みます。この御魂振之宮は、大東亜戦争の戦災で焼失した御社殿の復興事業開始時に、天照大御神・三輪大神・少彦名大神・菅原道真公を御祭神として復興成就祈願のために御造営されたもので、昭和四十三年遂に御社殿復興の成った後は、「一願一遂の宮」と称されています。皆それぞれ祈願した後は、各自境内の散策・学習や授与所での御朱印・御守の拝受等に時を過ごしました。

阿部野神社を辞したのちは、北畠三丁目から同二丁目の住宅地を十数分歩き、北畠顕家公御墓のある北畠公園に向かいます。流石に大阪市内随一の高級住宅街であるだけに、国旗を掲揚している住宅も道々見られます。

北畠公園はあべの筋に面した小さな公園ですが、楠の巨木が何本も聳え立ち、その木蔭によって日中でも薄暗く、あべの筋の喧騒も遮断されています。一同北畠顕家公御墓に拝礼して公の忠勇を偲び、暫く園内で各自散策・学習を行ったあと、御墓前を辞します。

北畠公園近くから熊野街道(熊野古道)に入り、空襲を免れた蒼古たる旧家が建ち並ぶ古街道をそぞろ歩き、阿倍王子神社に至りました。阿倍王子神社は社伝によるともと仁徳天皇の御創建に成るといい、この近辺に拠った名族阿倍氏(安倍氏)の氏神を経て、熊野詣での盛行とともに熊野街道沿いに勧請された九十九王子のひとつ「阿倍野王子」となり、時流によって衰微する王子社の多いなか、大阪府下で唯一現存する王子社として現在に至っています。御祭神は、熊野王子神(伊邪那岐命、伊邪那美命、速素盞鳴命)、八幡大神(品陀別命)です。境内には紀元二千六百年紀念碑もあります。一同御祭神に皇室の弥栄と国家の安泰を祈願しました。

阿倍王子神社でも参拝後授与所を訪れたあと、すぐ近くの安倍晴明神社に向かいました。安倍晴明神社は阿倍王子神社の飛地境内末社で、「陰陽師」ブームで一般にも知られるようになった安倍晴明公の御生誕地とされています。御祭神は安倍晴明大神(安倍晴明公)。周辺の旧地名は晴明公の伝説上の父君・安倍保名公に由来する「保名」であり、いまも近くの保名郵便局にその名を残しています(晴明公の父君は歴史上は安倍益材公とされています)。同社でも一同御祭神に皇室の弥栄と国家の安泰を祈願し、これにて紀元節オフの全行程を終了致しました。

オフ終了後は、近くの阪堺「東天下茶屋」電停から路面電車であべの筋を北上して天王寺駅前に向かい、料理店にて紀元節奉祝懇話会を開催致しました。

※「あべの」の漢字表記について、「阿部野」とするのは現在、阿部野神社と近鉄・大阪阿部野橋駅くらいで、区名をはじめ多くは「阿倍野」が用いられています。





★第三十七回★
★【皇統の未来を守るオフ37】昭和天皇二十年祭記念「昭和天皇をしのびまつる午後」★
開催日時平成21年1月11日(日曜日)午後1時~5時
開催場所大阪市立中央青年センター(大阪市中央区法円坂1-1-35)3階A棟4号室地図
大阪市立中央青年センター
趣旨平成二十一年一月七日は先帝昭和天皇崩御から二十年目にあたり、宮中ならびに武蔵野陵において
「昭和天皇二十年式年祭の儀」が斎行されます。これを記念し、昭和天皇永久不滅の御聖徳を偲び奉る
小会合を開きたく存じます。昭和年間、そして先帝陛下の御治世をよく知る世代の方は勿論の事、
よく憶えていない、生まれていなかった、という年若い方も是非お越し下さい。
費用無料。
参加者は、初参加の方3名を含む18名でした。

13時に開始された会合では、参加者全員が昭和天皇に関する個人的思い出などをそれぞれ発言したのち、昭和天皇御在世時の記録映像の上映(約二十五分×二本)を行い、その感想も含めてさらに語り合ううち、あっという間に予定の五時を迎えました。申すまでもなく、昭和天皇の偉大な御治世はわずか四時間ではとても語り尽くせるものではありませんが、昭和の記憶が次第に遠のく今、二十代の青年たちも交えて昭和天皇永遠不滅の御聖徳を偲び奉る会合を催せたことは、人数の多寡にかかわらず意義深いことだったと思います。

最後に全員で武蔵野陵を遥拝し、今次オフの全予定を終了致しました。

その後、森ノ宮駅前にて懇親会を開催致しました。





★第三十六回★
★【皇統の未来を守るオフ@三周年】浪華伝住吉大社現代記★
開催日時平成20年12月14日(日曜日)午後3時集合
集合場所南海電鉄南海線「住吉大社」駅改札前
趣旨神功皇后三韓征伐、後村上天皇・長慶天皇の住吉行宮など、国史上多大の勲功をものした正一位住吉大明神。
大阪的乱雑のなかにありても濁らぬ神の威、人の敬に触れ、当オフ三周年の参拝と学習としたく存じます。
   住吉大社
順路南海「住吉大社」駅改札前~住吉大社~生根神社~住吉行宮~阪堺「細井川」駅から
「天王寺駅前」駅へ路面電車にて移動し、天王寺にて忘年会。
費用忘年会参加者は交通費・飲食費適宜。
今回の参加者は13名でした。

午後三時ちょうどに集合場所の南海住吉大社駅を出発、土産店や占い屋の並ぶ道を進むとほどなく住吉大社の豪壮な大鳥居に迎えられます。境内に参入すると、おのおの巨大な奉納燈籠に驚き、露店をひやかし、有名な太鼓橋を渡り、神前での挙式を終えたばかりの新郎新婦を親族に混じって勝手に祝福するなど物見を楽しみ、その後手水を済ませて威儀を正し、本宮前に参じます。

住吉大社は、住吉三神と神功皇后を御祭神とし、第一本宮(御祭神・底筒男命)、第二本宮(同・中筒男命)、第三本宮(同・表筒男命)、第四本宮(同・神功皇后)の四つの本宮があります。このうち第三・第四本宮は現在修復工事中のため、御神体が第一本宮に遷座されています。

我々も第一本宮、第二本宮の順に参拝し、神功皇后三韓征伐に因む御鎮座以来一千八百年の長きに亘って皇室と国家を守護してきた住吉大明神に、皇室の弥栄・皇統の永久不改・御不例中の天皇陛下の御平癒を熱祷致しました。

さらに大海神社・種貸社・生根神社(現在は住吉大社の摂社から離脱)・淺澤社など境内・境外の摂末社、関係神社を次々参拝したのち住吉行宮跡に至り、後村上天皇崩御・長慶天皇即位の地である同所において両帝の御苦衷と累代の宮司津守氏一門の忠勇を偲び、三周年オフの全行程を終えました。

オフ終了後は、阪堺「細井川」電停から路面電車で天王寺に向かい、ささやかな忘年会を開催しました。

平成二十一年も宜しくお願い申し上げます。





★第三十五回★
★【皇統の未来を守るオフ35】学習会「拜跪聖陵─現代に於ける実践的皇陵崇敬の意義」★
開催日時平成20年11月24日(振替休日・月曜日)午後1時~5時
開催場所大阪市立中央青年センター(大阪市中央区法円坂1-1-35)3階A棟4号室地図
大阪市立中央青年センター
趣旨 畏くも歴世万乗の聖天子を始め奉り瓊枝玉葉の御方々御座す皇陵は、国家永遠の宗廟にして
至尊不可侵の聖域なり。
 然るに頃来人心退歩に及び、皇陵崇敬の美風漸く萎靡し、動もせば列聖廟陵に対し奉り
不敬不逞の言動世上之れ有り、剰え畏れ多くも仁徳帝応神帝御陵等を“ユネスコ世界遺産”
に託け侵し害し奉らんと姦計致す学匪賊徒出来し、平生皇室尊崇を呼号する人士に於いてすら、
「世界遺産」の美辞に惑いて其の不敬なる真意を知らず雷同致す者少なからず。
 斯く時局に鑑み、世に尊皇を唱えるに方りて自然弁えあるべき皇陵に懸る知見を修め、
連関の諸事情を究め、以て新たなる皇陵崇敬の大業を肇始せんと欲するものなり。
 乞う来たれ有為多望の日本健児ら。
費用無料。
今回の参加者は19名でした。

午後一時から始まった学習会は、第一部で陵墓に関する基礎知識や史上のおおまかな流れを確認し、第二部では、陵墓と八幡信仰の関わりや、前近代の陵墓民間信仰が現代にも残存する例、戦前の皇陵巡拝活動など、陵墓崇敬の態様を諸々吟味しました。

第三部では、森浩一、高木博志、石部正志、外池昇ら、学界のペテン師たちの「陵墓は近代に捏造されたもの」「“仁徳天皇陵”ではなく、単なる遺跡として“大山古墳”と呼ぶ」「陵墓を皇室から奪い国民の文化財とすべき」「陵墓公開は発掘、それも埋葬施設の発掘までやらなければ意味がない」といった主張に目を通したうえで、現在文化庁や堺市によって推進されている仁徳天皇陵・応神天皇陵などを含む百舌鳥・古市「古墳群」の世界遺産登録の動きを検討し、陵墓の「古墳」呼ばわりや「文化財」志向、公開志向など、その態度が先のペテン師たちの主張と全く同一であることを認識し、皇室尊崇の立場から、仁徳天皇陵・応神天皇陵など陵墓の世界遺産登録を断固阻止する事を一同再確認し、今次オフの全予定を終了しました。





★第三十四回★
★【皇統の未来を守るオフ34】青蓮院宮餘薫追懐★
開催日時平成20年10月26日(日曜日)午後2時集合
集合場所京都市営地下鉄東西線「東山」駅改札前
順路地下鉄東山駅~花園天皇十樂院上陵(門前より遥拝)~青蓮院門跡~青蓮院宮上ノ墓地
~青蓮院宮下ノ墓地~三条方面。
趣旨 天台三門跡の一として平安末期以降皇族方や摂家の子弟が入室され、数多の天台座主を輩出した
青蓮院門跡を拝観するとともに青蓮院宮両墓地に参拝し、歴代宮方の餘薫を追懐し学習を深めます。

      青蓮院門跡

費用青蓮院門跡拝観料500円。
今回の参加者は、15名でした。

当日は小雨がパラつくなか、集合場所の地下鉄東山駅を14時過ぎに出発して神宮道を南下し、まず十樂院上陵(人皇九十五代花園天皇御陵)を門前より遥拝した後、お隣の青蓮院門跡に参詣し、華頂殿・宸殿・小御所・本堂などを拝観しました。この日は偶々、大手お香業者・松栄堂による「薫物(たきもの)」の展示会が開催されており、王朝の餘薫を想わせる香りが殿上に満ち、古色を重ねた御殿の佇まいや霧雨に煙る庭園の様とも相俟って、往時を偲ぶに相応しい趣でありました。

御殿で長く時間を過ごして庭に出る頃には雨もすっかり上がり、龍心池を中心とする池泉回遊式庭園を歩いたのち、拝観客もまばらな庭園最奥部に至り、後伏見天皇廿一世皇孫德彦王(のち龍田德彦伯爵~梨本德彦氏)御胞衣塚・後伏見天皇廿一世皇孫家彦王(のち宇治家彦伯爵)御胞衣塚・後伏見天皇廿一世皇孫女發子女王御胞衣塚・後伏見天皇廿一世皇孫賀彦王御胞衣塚・後伏見天皇廿一世皇孫女珖子女王御胞衣塚・後伏見天皇廿一世皇孫女恭仁子女王(のち二條弼基公爵令室)御胞衣塚を拝しました(以上の方々はいずれも久邇宮多嘉王殿下の王子女)。

青蓮院門跡境内をあとにして粟田口から坂の径を上り、小さなお堂ながら青蓮院御門主が住職を兼務される尊勝院に参詣したのち山中に分け入り、まず青蓮院宮上ノ墓地にて後伏見天皇皇曾孫道圓親王(百四十一世天台座主)御墓、後柏原天皇皇子尊鎭親王(百六十三世天台座主)御墓、後伏見天皇九世皇孫尊朝親王(百六十七世天台座主)御墓、後伏見天皇九世皇孫尊純親王(百七十三・百七十七世天台座主)御墓、後水尾天皇皇子尊證親王(百八十二・百八十五世天台座主)御墓、後伏見天皇十四世皇孫英宮御墓、後伏見天皇十五世皇孫尊祐親王(百九十五・百九十八・二百一・二百四世天台座主)御墓、後伏見天皇十六世皇孫尊英親王御墓を拝し、つづいて青蓮院宮下ノ墓地にて後伏見天皇十六世皇孫尊眞親王(二百十・二百十二・二百十五・二百十七世天台座主)御墓、後伏見天皇十八世皇孫尊寶親王(二百二十三世天台座主)御墓、靈元天皇五世皇孫きつの宮(「きつ」はさんずい偏に吉)御墓を拝しました。雨上がりの山道ということもあり、足許が多少危なくはありましたが、事故もなくこれにて無事にオフの全予定を終了致しました。

オフ終了後は、三条木屋町の居酒屋にて懇親会を開きました。





★第三十三回★
★【皇統の未来を守るオフ@新宮様御生誕二年】座談会「皇統護持とは何か・・・皇統護持活動とは何か」★
開催日時平成20年9月15日(敬老の日・月曜日)午後1時~5時
開催場所大阪市立中央青年センター(大阪市中央区法円坂1-1-35)3階A棟6号室地図
大阪市立中央青年センター
趣旨 二年前の新親王殿下御生誕により、皇統断絶を齎す皇室典範改定策動はひとまず消沈したものの、
萬世一系の皇統とその奉護への関心もともに風化し去り、他方では皇室に対し奉るヒステリックな
バッシングを含むゴシップ誌的“関心”はそのヴォルテージを上げるばかりである。
斯く情況下、小なりとはいえ皇統護持の旗を掲げて来た我々の活動にはどのような意義があったのか、
また今後どのような意義があるのか。(或いは無いのか)
新宮様御生誕二年を期し、馴れ合いや社交辞令の応酬を廃した真摯なる意見表明と議論を求めたい。

なお、初心の方の御参加も歓迎する。

費用無料。
参加者は、初参加の方2名を含む14名でした。

当日は午後1時すぎから座談会を開始し、「皇統未だ磐石ならず」との反省を踏まえ、これまでのオフ会活動についての所感と今後の取り組みについての提案を参加者全員に発言していただいた上で議論を進め、様々な有意義な問題提起や示唆が得られました。

議論のなかでは、月一回オフの場に顔を出すだけで“皇統護持活動”に参加しているつもりになってはならない、日常の研鑽によって個々人が資質を高めていく努力が重要である、といった主張がなされ、そうした研鑽の入口となるべき自己確認のよすがも提示されました。それぞれ一層の研鑽の必要性を痛感されたようです。

また時局に関する話題としては、一部の自称“保守派”による皇室バッシングやマスコミ業者の皇室報道に見られる日本人の心性の変質に懸念が示され、特に一部の自称“男系派”が皇室バッシングの先頭に立っていることについては、重大な決意をもって対処しなければならない旨話し合われました。

「皇統の未来を守るオフ」は、これからも不撓不屈の歩みを刻んでまいります。今後とも御指導御鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。





★第三十二回★
★【皇統の未来を守るオフ@宇治】★
開催日時平成20年8月17日(日曜日)午後1時集合
集合場所京阪宇治線「宇治」駅改札前
趣旨仁徳天皇不滅の御聖業の原点を訊ねて、千早振る宇治の地に菟道稚郎子尊の御魂を訪います。

     宇治橋  宇治墓

順路京阪宇治駅~宇治墓(應神天皇皇子皇太子菟道稚郎子尊御墓)~宇治神社~宇治上神社
~京阪電車にて伏見桃山方面。
費用無料。直会参加者は伏見桃山までの電車賃と飲食代適宜。
参加者は、初参加の方5名を含む21名でした(男子18名、女子3名)。

当日は13時ちょうどに集合場所の京阪宇治駅を出発して宇治墓(應神天皇皇子皇太子菟道稚郎子尊御墓)に向かい、皇太子菟道稚郎子尊の御事績について各自予習してきた内容を簡単に確認したのち一般拝所にて一同拝礼しました。

その後、宇治墓陪冢い号を経て、宇治川の河岸から宇治墓の全景を望見しつつ駅前まで戻り、宇治橋東詰から朝霧通りに入ります。日陰の涼しさに驚きながら朱色鮮やかな鳥居を求めて宇治神社までそぞろ歩き、一同姿勢を正して同社社頭参拝に望みました。宇治神社の御祭神は菟道稚郎子尊です。

社頭参拝を終える頃、花房義久宇治神社宮司(神道政治連盟京都府本部副本部長)からお約束を頂いていた14時となったため社務所を訪問し、16時すぎまでのおおよそ二時間に亘って花房宮司から親しくお話を頂きました。

宮司の御講話と、参加者からの質問や問題提起を得ての対話の話題は、菟道稚郎子尊と兄君大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)の御関係に始まり、宇治神社の御由緒、宇治の地誌・地勢から、かつての巨椋池や淀川を通じた水上交通の歴史地理的考察、皇室・皇統への想い、「千年紀」ブーム喧しい源氏物語と宇治の所縁、御祭神兄君たる仁徳天皇御陵の世界遺産登録問題、教育問題、インターネットを通じた諸活動の可能性、さらにロシアのグルジア侵略やチベット・東トルキスタン・南モンゴルといった外事情勢にまで至り、あっと言う間に予定の二時間を越えていました。

16時過ぎに社務所を辞去したのちは近くの宇治上神社(御祭神は菟道稚郎子尊・應神天皇・仁徳天皇)にも向かい、現存最古の神社建築だという御本殿に詣で、今次オフの全予定を終えました。

オフ終了後は京阪電車にて伏見桃山駅に移動し、大手筋にて直会を開きました。





★第三十一回★
★【皇統の未来を守るオフ31】仁徳天皇陵参拝と清掃奉仕★
開催日時平成20年7月27日(日曜日)午後3時集合
集合場所JR阪和線「百舌鳥(もず)」駅西口
開催場所仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(大阪府堺市)衛星写真
       仁徳天皇百舌鳥耳原中陵
次第JR阪和線「百舌鳥」駅西口集合~百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵)参拝~周辺の清掃奉仕
~JR阪和線にて天王寺方面。
費用無料。直会参加者は天王寺までの電車賃と飲食代適宜。
今回の参加者は16名でした。

当日は15時ちょうどに集合場所のJR百舌鳥駅を出発し、百舌鳥耳原中陵(第十六代仁徳天皇御陵)の一般拝所にて一同拝礼したのち、気温36度の猛暑のなか、一周約2800メートルある同御陵の周回路をゴミを拾いながら歩き始めます。

二年前にも同御陵周回路の清掃を行いましたが、その時に較べるとゴミが少なく思われ、その意図はともかくとして堺市当局の美化努力が感じられます。しかしそれも大仙公園に向き合う御陵正面附近のみのことで、後円部側に至れば空き缶、ペットボトル、吸殻等がいくら拾ってもキリが無いほど落ちています。それらを全て拾い尽くしながら17時ごろにようやく周回清掃を終え、御陵拝所にて無事終了の旨を奉告したのち、JR百舌鳥駅から天王寺に電車移動し、直会を開きました。

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by 彦十郎
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