アジア太平洋戦争で死亡したとされる日本軍軍人・軍属約230万人のうち、約6割にあたる約140万人の死因は戦闘による狭義の「戦死」ではなく、栄養失調による病気や飢えだった。誕生に備えて、皇太子ご夫妻が栃木・那須御用邸で静養中の8月、「皇子(おうじ)室」と呼ばれる子ども部屋のうち、紀宮さまの部屋だった部分を改修し、付き添いの看護婦の部屋とに分けられた。子供部屋は8畳ぐらいで、床は自然素材のコルクをはり、浴室やトイレ、空調も一新したという。改修費は約2900万円。皇室用財産の修繕費などを賄う公費「宮廷費」から支出される。5月20日、午前8時頃、わずか3時間の睡眠で出発、山を越えて東方に向かう。途中、部落に火を放ち、敵の拠点となるのを防ぐ。さらに中隊長命により、農村といえども、女も子どもも片っ端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に、50人、60人。かわいい娘、無邪気な子ども。泣き叫び手を合わせる。こんな無残なやり方は、生まれて初めてだ。ああ、戦争はいやだ。」昭和13年5月20日、徐州郊外での出来事。雅子さまの懐妊が確認されたことを受け、宮内庁は、出産にともなう諸行事について、旧皇室親族令の「皇太子の子誕生式」を参考に帯は、一般の場合は「さらし木綿」だが、旧皇室親族令では、長さ約3.6bの「生平絹(きびらぎぬ)」となっている。これを、半分の幅に折って、三重にたたみ、白い「鳥の子」と呼ばれる紙で二重に包んで、その表に金粉とにかわを混ぜた「金泥」で松とツルを描き、まき絵の「衣筥(衣装箱)」に入れて届ける。戦後の旧厚生省調査では日本人戦没者は約310万人とされ、空襲の内地の被災者らを除いた軍人・軍属が約230万人に上る。小泉首相は午前10時前に宮殿に入り、両陛下と皇太子さまにお祝いの言葉を述べた。官邸に戻った首相は記者団に「両陛下と皇太子さまは非常にうれしそうだった。皇族方の集まった場所ではシャンパンで乾杯した。あんなに和やかで明るい宮中は初めてだった」と感想を述べた。昭和18年(1943年)10月21日、学徒出陣式。雨の明治神宮外苑、国立競技場、若者75,000人。戦況の悪化に伴って、20歳以上の学生の兵役免除が反故にされ、戦場に送り込まれることになった25,000人の学生の出陣壮行会が行われた東条首相訓示「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より征途につき、祖先の威風を昂揚し、仇なす敵を撃滅して、皇運を扶翼し奉るの日は こんにち来たのであります。」出陣学生。軍隊は非合理でした。上官が、2日目から訳もなく殴る。日本精神でひっぱたいて鍛えることしかないんですよ。フィリピンのジャングルの中での経験ですが、黄色い水というか泥水があちこちに流れているんです。水のそばには必ず死体が
あリました。それも頭、手、足がばらばらになっているんです。ダンテの「地獄編」を読みましたが、その地獄そのものでした。
皇居内の宮内庁病院に入院した皇太子妃雅子さま(37)について宮内庁は12月1日、「本日午後2時43分ご出産、(女の子である)内親王がご誕生になりました」と発表した。藤原さんは、餓死が多かったガダルカナル島、ニューギニア、メレヨン島(現ウォレアイ島)などの南洋諸島などをはじめフィリピン、タイ、中国大陸など、ほぼ全地域にわたって戦線や作戦ごとに現存する軍資料や幹部の証言録、戦後の戦没者調査などを基に死因別の死者数(一部推計を含む)を数えた。皇太子さまは20日午後、英国のチャールズ皇太子とともに、ロンドンのハイドパークで開かれた日本文化を紹介する事業「Japan 2001」のイベントを視察した。阿波踊りの会場では、チャールズ皇太子とともにうちわを持ち、参加者と一緒に踊り出す場面もあった。政府は一握りの利権者が潤うだけの泥沼の構造に60兆円もの税金を使おうとしている一方で、今度は税収不足を補うためにその銀行に借金を申し込む。国民のカネをアテにした自転車操業で国の借金はどんどん膨れ上がっている。そういう現実を、われわれ国民は外国の新聞報道で改めて目のあたりにする。にもかかわらず、小泉純一郎のような詐偽政治家に熱狂する奴隷国民の病は戦前とまったく変わっておらず余りにも深刻である。皇孫殿下御誕生一般参賀について。宮内庁。皇孫殿下御誕生一般参賀は,皇居及び東宮御所で次のとおり行われます。
皇居及び東宮御所において記帳又は名刺をお受けします。記帳は都道府県名と氏名を記入することとなりますが,筆記用具等は記帳所に備え付けてあります。皇居宮内庁庁舎前特設記帳所平成13年12月2日(日)午後1時から同4時まで平成13年12月3日(月)午前9時から正午まで参入は坂下門(さかしたもん)から,退出は桔梗門(ききょうもん)からとなります。藤原彰教授の研究結果は「餓死(うえじに)した英霊たち」(青木書店)として5月24日、出版される。総務省が30日発表した10月の労働力調査結果によると、完全失業率(季節調整値)は9月より0.1ポイント上昇して5.4%となり、過去最悪を記録した。完全失業者数は前年同月比38万人増の352万人で、7カ月連続で対前年同月を上回った。就業者数は同103万人減の6405万人と7カ月連続で減少し、第1次オイルショックの影響を受けた1974年10月の同105万人減以来、27年ぶりに減少幅が100万人台に乗った。厚生労働省は雇用情勢について一段と厳しさを増しており、しばらくはこうした状況が続くだろう。東京都千代田区の皇居前広場では2日夕、皇太子ご夫妻の赤ちゃん誕生を祝う経済界や学者らで作る民間団体主催の「国民の集い」が開かれた。約2万5000人(主催者発表)がちょうちんや日の丸の旗を振って祝った。天皇、皇后両陛下も広場を見下ろす二重橋に姿を見せ、車の中から「万歳」の声にこたえた。「噂の真相」岡留編集長と副編集長刺殺未遂事件。2000・6・7右翼に襲われ、重傷!!編集室は血が飛び散り、警察が編集室で実況検分の事態に既にテレビ各局でも報道された通り、「噂の真相」編集長と副編集長らが右翼に暴行を受けるという“事件”が発生した! 事件は7月号発売直前の6月7日午後6時頃、右翼団体「日本青年社」三多摩支部の”行動隊長”と”副隊長”の二人が抗議のため編集室に訪れたのが発端。応対していた岡留編集長と川端副編集長に、話し合いの途中突然襲いかかったのだ。日本青年社側の主張は、『噂の真相』6月号の一行情報で雅子妃の敬称を省いたことを抗議し、「謝罪し、ペナルティとして『噂の真相』を一号休刊せよ」というもの。この要求に対して編集長らは断固拒否。右翼行動隊長らは応接室のガラスの机や果物ナイフをふりかざすなど、騒動は10分以上に及んだ。雅子さまのご出産で、経済界にも慶賀ムードが広がった。今井敬・経団連会長の話 国内景気やアフガニスタン情勢など、内外の世情が暗いだけに、このたびの吉報は日本国民に安らぎと期待を与えるもの。これからの世代に、より良い日本を引き継ぐことができるよう、国民の一人一人が今一度心を引き締め、それそれの役割を果たしていかなければならないと思う。「日本国がいつ破産するかという問題ではなく、もう既に財政は破綻している。民間で言えば債務超過なのである。結論からいうと、現在の日本経済の今の体力では民間経済がいくら稼いでももう返済できない位の借金の額となってしまったのだ。」2001-11財務総合政策研究所特別研究官・大阪大学(財政学)・跡田教授。戦後、飛騨高山の近くに住む76歳の人の話。戦争とは双方の軍隊が華々しく戦闘をまじえ、勝った方がいろいろな要求をして自分の権益を守る確約をさせて終戦になると教え込まれ、自分もそう思い込んでいた。だが「従事した現実の戦争は、まともに食糧を持たず、部落から部落を襲って歩く強盗、火つけ、強姦集団でしかなかった」。その人は、フィリピンで大隊長の命令で捕虜をひとり射殺したことはあるが、他の兵士がふつうにやっていた虐殺にも強姦にも、中国兵を食人した行為にも加わってはいない。だからといって「わしに罪がないということにはならない」。皇太子ご夫妻のお子さま誕生の朗報に、街角ではお祝いの幕が揺れ、夜に入ると、山車や提灯(ちょうちん)行列も繰り出した。午後3時過ぎ、東京・銀座の電光掲示板に「雅子さま女児をご出産」の速報が流れると、人だかりの中から「わぁー」という歓声と拍手がわき起こった。JR東京駅近くにあるガラス張りの地上31階建ての新築ビルでは夕方から、室内の明かりの一部を点灯させて、「寿」「祝」などの文字を浮かび上がらせ、お子さま誕生を祝福した。7月5日 戦争とはこれか、惨烈の極みだ。目、鼻、耳、手足のないのが続々と来た。苦しむ声を聞くと、胸がつまる。7月7日もう1回でよい。家に帰りたい。家に帰って父母に逢いたい。心残りだ。すべては夢に過ぎぬ。僕の人生が二十五年の長い夢に過ぎなくなってしまふのだ。憶へば平凡だった。生き甲斐のある人生だったらうか。戦友は皆、夢を見て死んだんだ。7月11日死んでなるものか、これまで折角の親の苦心を、水の泡にしてはならぬのだ。生きて必ず帰る。俺は帰ってきっと成功して、親を安心させて見せる。それまで必ず神様よ、生かしてください。天皇は2001年12月23日、68歳の誕生日を迎え記者会見し、W杯の共同開催国、韓国に対する関心や思いを問われ、同国からの移住者らが文化や技術を伝えたことに触れ「私自身としては、桓武(かんむ)天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語った。一方、「残念なことに韓国との交流はこのような交流ばかりではありませんでした」と語り、「このことを私どもは忘れてはならない」と述べた。「あたら青春をわれわれは何故、このようなみじめな思いをして暮らさなければならないのでしょうか。若い有為の人々が次々と戦死していくことは堪(たま)らないことです。中村屋の羊羹(ようかん)を食べたいとふっと思い出しました」戦没学生『きけわだつみのこえ』「まこと国を挙げて敵を撃つ決戦の秋(とき)、大君に召されて戦いの庭に出で征つ若人の力と意気はここに結集し、送る国民の赤誠、またここに万斛涙となって奔ったのである。」
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