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朝鮮人「帰国」事業で新資料
問われる日本政府の責任
日本赤十字も「国益」に関与




(朝日新聞・04−9−21より引用)

テッサ・モーリス・スズキ(Tessa Morris‐Suzuki) オーストラリア国立大教授(日本史)1951 イギリス生まれ。


日本および朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府ともに「過去の清算」を求めているにもかかわらず、日朝国交正常化への険しい道は、「過去」にかかわる基本的に異なる解釈によって遅々として進まない。

 日本政府にとり清算すべき過去とは、北朝鮮による日本人拉致事件であり、北朝鮮政府のそれは、より古くより大きな日本による朝鮮半島植民地化の歴史である。

しかし両国政府によって無視され続けてきた清算されるべき過去もまた存在する。

 1959年から一時の中断をはさみ84年まで続いた「帰国事業」では、9万3千数百人の在日朝鮮人が北朝鮮に「帰国」した(日本人配偶者を含む)。その中には、現在でも北朝鮮で存命している人がいる。しかしかなりの数の帰国者はのちに労働収容所に収監され消息を絶ったか、またある者は国境を越え中国に逃れた(脱北者)。

 隠された主要な動機
 帰国者の圧倒的多数が朝鮮半島南部にルーツを持つ人々だったのは、よく知られている。彼ら彼女らが新生活を求め、日本を去り北朝鮮に帰国する決断をした際、その選択はどのような状況下でおこなわれたのか。
 在日本朝鮮人総連合会(総連)は、日本国内で大規模な帰国運動を展開し、在日朝鮮人の一部の人々は確かに、平和で社会主義の「祖国」建設に貢献できると信じ、帰国していった。
 しかし、最近秘密指定が解かれた赤十字国際委(ICRC)の資料(以下、ICRC文書)は、この帰国事業にかかわる長く隠蔽された過去に、新しい光を当てた。その光によって浮かび上がってきたのは、日本政府および日本赤十字社(日赤)の果たしていた役割である。

 総連主導による大量帰国運動は、58年の8月に開始された。
しかしその3年近くも前から、日本政府と日赤は、在日朝鮮人の大量「帰還」について国際委に働きかけていたICRC文書によって確認されたのは、そうした働きかけの実態である。
 国際委への一連のロビー活動の中心人物は、外務省から出向してきたばかりの井上益太郎・日赤外事部長だった。1956年1月に彼が国際委に送付した書簡には、芦田均元首相と岡崎勝男元外相から、与党が在日朝鮮人の帰国への支援運動を始めるという非公式の示唆が日赤側にあった、と書かれている。      

 56年の段階で、6万人という在日朝鮮人の大量「帰還」の可能性が日本政府と日赤の間で検討された。この方針における隠された主要な動機は、(井上氏の手紙によれば) 「(在日朝鮮人は)性格が粗暴で生活水準は低く無知蒙昧」で、日本の治安や福祉にとって負の要因になっているとの認識だった。

 福祉の削減と同時期に
 たとえば、外務省から同意を得た文書だとして井上氏は国際委に次のように書き送った。
「彼らの意思とは無関係に、生活が苦しい在日朝鮮人を北朝鮮か韓国に帰国するよう日本政府が仕向けられない限り、在日朝鮮人の生活問題は解決しない」
 また重光葵外相も、日本を訪れた国際委の特使に、「日本で悲惨な生活を送る女性や子供たちが、早く自分の国へ帰るよう希望する」と告げていた。

 ほとんどが水面下で進められた右の政策と期を同じくして、56年ごろ、在日朝鮮人への生活保護支給を削減させるキャンペーンが厚生省によっておこなわれた事実を、ここで想起すべきだろう。在日朝鮮人への福祉は打ち切られたか、支給額が大幅に削減された。かくして「日本で悲惨な生活を送る女性や子供」は、より悲惨な状態へ追い込まれたのである。

 この厚生省のキャンペ−ンが、大量の在日朝鮮人の帰国計画と連動しておこなわれていた可能性も、ICRC文書から推測できる。こうした在日朝鮮人への福祉削減は彼らが北朝鮮で仕事を見つけようとする動機になるだろう、と井上氏は国際委に書き送っていた。

 在日朝鮮人帰国事業にかかわる多くの真実は、まだ闇の中に閉ざされたままだ。
しかし今回発見されたICRC文書から、次の2点が明らかとなった。
1、本来NGOであるはずの日赤が「国益」を代行した。
2、以前から疑われていた以上に、日本政府は帰国事業に深く関与しておりその事実は計画的に日本国民および在日朝鮮人たちから秘匿された。
とするなら、帰国者たちがたどった運命について、北朝鮮政府はもとより日本政府も責任を 負う必要がある。少なくとも切迫した問題として、元在日朝鮮人脱北者たちが、「日本に帰国」を望む場合、日本政府にはその人たちを積極的に受け入れる歴史的責任があるのではなかろうか。




2004/09/16ASAHI
北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに

 在日朝鮮人9万人余が北朝鮮に渡った帰還事業(59〜84年)に先立ち、日本政府や有力政治家、日本赤十字が55年から赤十字国際委(本部・ジュネーブ)に積極的に働きかけていたことを示す秘密文書が、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授(日本史)の調査で明らかになった。大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。

 帰還事業は、帰った人が行方不明になったり「脱北」したりした実態が後にわかり、実施の経緯について議論がある。

 文書は、赤十字国際委が秘密扱いを解き今年公開した。帰還事業は一般に、58年の在日関係者の運動や北朝鮮政府の呼びかけなどで機運が高まり、それを受けて59年2月に日本政府が実施を閣議了解したと説明される。公開された文書は56年7月に国際委が帰還実現へのあっせんを提案する以前のもので、この時期に日本の政治・行政が積極的に行動したことを示す資料はほとんど知られていない。

 55年12月の国際委への書簡で島津忠承・日赤社長は「帰還が韓国との間に問題を起こさないなら、そしてそれが北朝鮮の赤十字でなく国際委の手で遂行されるなら、日本側は全く異論はなく、むしろ期待を寄せるものである」と述べ、国際委の関与による大量帰還の実現を要望した。追伸には「この書簡は日本の外務省と法務省の有力当局者の完全な了承を得ている」と書いていた。

 56年1月の国際委への書簡で日赤の井上益太郎外事部長は、与党に帰還支援を始める兆しがあり、「芦田均元首相や岡崎勝男元外相が(略)在日朝鮮人の帰還を支援する政策を具体化すると、非公式に私たちに伝えてきた」と記し、国際委の協力決断を促していた。

 56年春に国際委が日本に送った特使のメモには、重光葵外相が「とりわけ日本で悲惨な生活を送る女性や子供たちが早く自分の国へ帰るよう希望する」と特使に述べたと記されていた。

 また、島津社長は57年2月の書簡で、同封の文書が政府の同意を得ている事実は公表しないでほしいと要望していた。背景には、韓国を刺激したくないという政府の意向などがあったと見られる。

 モーリス・スズキ教授は「日本政府が早くから大量帰還政策を秘密裏に進め、日赤がその『国益』を代行した構図が見えてきた。北朝鮮政府や朝鮮総連だけでなく日本政府や日赤にも、帰還事業について説明責任がある」と語っている。



(東亜日報)SEPTEMBER 16, 2004
在日同胞の北朝鮮送還、日本政府の「追放事業」だった 朝日新聞報道

在日同胞の北朝鮮送還事業(1959〜1984年)が、日本政府と政治家、日本の赤十字社などが共同で進めた事実上の「追放事業」だったことを裏付ける文書が公開された。16日付の朝日新聞が、今年「秘密解除」された国際赤十字連盟の文書を引用して報じた。

朝日新聞が豪州の国立大学調査チームから入手して報じた内容によると、1955年12月当時、日本赤十字社代表は国際赤十字連盟あてに書状を送り、北朝鮮送還事業への支持意向を伝えた。日本赤十字社は書状で、「帰還(北朝鮮送還)が、韓国との間で問題化されず、北朝鮮赤十字社ではなく国際赤十字連盟によって進められるならば、日本側は異義がなく、むしろ期待感を寄せている」とし、支持の立場を示した。


また、同書状の追伸では「この書状は、外務省と法務省の有力当局者から完全な承認を得ている」としており、日本政府も北朝鮮送還事業を「朝鮮人整理」のレベルから支持していたことを示している。1ヵ月後、日本赤十字社・外務部長名義の書状で「芦田均元首相らが、在日朝鮮人の帰還を支援する政策を具体化する方針だ、と非公式的に伝えてきた」と記した内容も、こうした日本政府の態度を見せている。


調査チームは、日本赤十字社が送った最初の書状から7ヵ月後に、国際赤十字連盟が北朝鮮送還事業の仲介役を正式に提案した点を指摘し、「日本政府と政治家、日本赤十字社などが最初から北朝鮮送還事業に積極的にかかわっていた」との見方を示した。


日本赤十字社はまた、57年2月に国際赤十字連盟あてに送った書状で、北朝鮮送還事業が日本政府の同意を得ているとの事実が公開されないことを願う、という意向を伝えたこともある。北朝鮮側が行った宣伝と日本内の追放工作によって北朝鮮入りした、およそ9万人にのぼる在日同胞の相当数は、スパイ容疑で粛清または行方不明になった。




MAY 18, 2004 22:30
日本、北朝鮮送還事業は追放政策

朝日新聞が18日、日本政府と各民間団体が1959年から、人道主義を名分に積極的に支援していた在日朝鮮人の北朝鮮送還事業は、実は「貧しく犯罪率の高い、頭を悩ませる存在」を追放した側面が強いとの見方を報じた。

明治大・川島高峰教授が調べた外務省資料によると、1959年12月13日付の日本政府資料「閣議承認」は、北朝鮮送還事業を承認した目的について「基本的な人権による居住地選択の自由、という国際社会の通念に基づいたもの」と説明している。


しかし、川島教授が入手した「閣議承認に達するまでの内部事情」と題付けられた極秘文書は「在日朝鮮人は、犯罪率が高く、生活保護対象の家庭が1万9000世帯にものぼり、それに必要とされる経費が年間17億円に達する」とした後「本人が希望する場合(北朝鮮に)帰還させようというのが、一般の世論であり、与党内での圧倒的な意見」とし、北朝鮮送還事業の政治的な側面を強調している。


また、この文書は、北朝鮮送還事業の時期と関連「(国交正常化に向けた)日韓会談が再開された後に実施すれば、反響が大きいだけに、会談が中断されている時期に、最も大きな障害を除去」することを明示し、韓国の反発を意識し、急いで承認したとの事実を裏付けた。当時、北朝鮮側との交渉にあたった日本赤十字社・井上益太郎外事部長は、59年3月24日付の電報で「北朝鮮送還者らが、再び日本に戻れないとのことを認識しているのかどうか、確認する必要がある」と強調している。


これについて、川島教授は「当時、日本政府が北朝鮮帰国者に、日本への再入国はほぼ不可能だとの事実を隠したまま、北朝鮮送還事業を進め、社会的な差別を抜本的に解消しようとせず、差別対象者を減らす方法で、問題を解消しようとしたもの」との見方を示した。