効果的な学習条件


子供達が現地校に通い始めて授業についていけるだけの英語力に達するまでの間、学校でどんなことを学んでいるのか、授業に出るということにどんな意義があるのか考えたことがあるでしょうか。英語力が十分でないうちは、理科のクラスに出ようが、社会のクラスに出ようが、学んでいるのは授業内容ではなく授業に使われる英語のみだろうと言われており、試験や宿題の評価も、学習内容の理解そのものよりも、特定の質問形式にどう答えられるかという質疑応答スキルの習得のあらわれが中心、要するに、どんなテストをしても、結果として出てくるのは子供の英語力であると言われているのです。本来の学習活動というのは、授業で与えられた内容を自分なりによく消化し、疑問を感じたり、好奇心が湧いて追究しようと思う程、自分で考える作業が活発であるべきなのですが、言語環境が突然変わってしまう子供達の場合、普通、授業で得られるはずの知的刺激が言葉の壁で遮断されてしまい、考える作業をする機会をかなり失ってしまうため、学習そのものの遅れが生じやすい状況に置かれることになります。学習内容の理解というのは、一つ一つの言葉の意味にとらわれる必要が無くなった時点で初めて起こるものなので、多数の単語の意味をつなげて文の意味を理解しているうちは、例えば、単元全体の内容を理解し学習するという全く別の作業が、人間の記憶力の面から見ても、非常に困難になるのです。

学習が最もはかどる条件というのは、簡単過ぎず難し過ぎず、多少チャレンジングな部分が含まれているのが理想的なのですが、実際、割合として換算すると、教科書等、読む文章の中で知らない単語が3〜7%、単元内容のうち既に以前学習し理解している割合が80%という状態が効果的だとされています。ですから、知らない単語の割合が7%を超えると、子供が知的に刺激を感じられるチャレンジングな範囲から逸脱して、学習内容を消化するのが非常に困難な状態になるわけなのですが、実際のところ、日本から途中で現地校に転入する場合、教科書の文章中、知らない単語が7%どころか、70%以上だったりするわけですから、子供達の置かれる学習環境としては教育的見地からすると想像以上に非現実的・過酷と言えるかもしれません。(大人が子供の学校の授業の様子や宿題・課題の形式を知って、「アメリカの学校の教え方は日本に比べて云々…。」と思うのは、あくまでも大人の意見であり、子供の見舞われる学習ストレスとは関係ないのです。どんなに教育方針がよく見えても、子供自身の英語力が十分でなければ、学校環境における子供個人のレベルにあった知的学習活動の停滞は避けられません。)

では、学習遅滞を最低限に抑えるために、英語力の足りなさをどう克服したらよいのかという問題になるわけですが、子供がずっと続けてきた学習活動の流れを停めないこと、授業中、言葉が聞きとれなかったとしても、学習内容の把握度をなんとか80%に保つために日本語での並行した知的学習が大切になってきます。必ずしも日本で使っている教科書や参考書等で並行して勉強する必要性があるという意味ではなく、子供の好奇心が湧いたり、疑問を追究できるような課外学習的な機会を与えられるよう環境を整えること、別の言い方をすれば、子供の話を聞いたり、どこかに連れて行くだけでなく、意識的に子供に考えさせるような問いかけをしたり、意識的に新しい情報を与えたりするような日本語でのやりとりが必要であろうということです。(=聞きっぱなし、連れて行きっぱなし、見っぱなしで終わらせない。)そして、子供の好奇心や疑問に対応できるシステムを整えること。例えば、親が答えられないような疑問であったら、誰に聞いたらよいのか、どこに資料があるのか、好奇心を追究するには、どんな知識が必要で、どのように情報を手に入れるべきか等、親がまず知っておく必要があるでしょう。そして、やはり知識を得るための基本である読書。現在、アメリカ人の子供達の中でも、学習問題を抱える原因のほとんどはリーディング力の弱さです。日本語であっても英語であっても、ひとりで読ませる場合は、文章の中で知らない単語が0〜3%ぐらいを目処に本を与えるのがよいとされています。先程触れたように、3%以上になると学習的でチャレンジングな範囲になるため、内容の理解に時間が掛かるようになりますから、楽に読み進めることができません。授業の場合は、わからないところを先生が解説したり、新しい単語の練習をしたり、ひとつの話に時間をかけながら学びますが、ひとりで読書をする場合は、助けをそれほど必要としない復習的な目的にすべきなので、新しい単語の意味の学習は最低限にとどめて、内容を重視するスタイルがよいのです。

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06/03