ホントにあった恐怖体験。書くほうも読むほうも要忍耐
無断転写厳禁
晩飯にスパゲティーを食っていた時、何気なく点けたアニマルチャンネルで寄生虫の話しをしていて、思わずゲーとなった私ですが、皆さんご機嫌いかが。
それで思い出したが、インドに行った時に、私も寄生虫にやられたのであった。
インドでは寄宿舎みたいな所で生活していたのだけど、世界中から集まって来ている何千人のうち、80%以上が滞在2,3日以内に何らかの病気になっていた。
大抵は激しい下痢と腹痛、吐き気、高熱、血尿などだったけど、数日でよくなるどころかドンドン悪化し、更には伝染病のようにそれが広がっていく、という地獄絵みたいな様子だった。
なんせ、水道の水に触れた歯ブラシで歯を磨くだけでヤラレちゃうんだから。
どんなに気をつけていても、ありとあらゆる所に病原菌が潜んでいるので、ある意味防ぎようがないのであった。
下痢が続き、オチリを拭くことすら痛くて出来なくなると、今度はティッシュを濡らして柔らかくし、それで拭く、という風になるのが人情。
すると今度はその水にヤラレてオチリの穴がドンドコ腫れていく、という、もう笑っちゃうしかねえよ状態になっていくのだ。
そんな中、一人、最後まで病気にならないでいた私。
そりゃもう徹底的に消毒しまくり、神経質を通り越して病的なまでに気を使っていたからな〜。
一日のうち、消毒に費やす時間だけで半分以上だったかもしれん。
なんせ、まわりでバッタバタと倒れてもがき苦しむ人達を見ていたからオッソロしくて・・・。しかも看病役だったし。
ここで私が病気になる訳にはイカーン!と思っていたのだった。
そんな訳で、1ヶ月のそこでの滞在中は見事に病気一つせずに過ごしたのであった。
がしかーーーーーーーし!
一日$1あれば過ごせるような汚い寄宿舎の生活ともオサラバし、さーて後は帰国するだけ、どうせだから4ツ星ホテルなんかに泊まって一日くらい贅沢しよう!と思ったのが’ウンのつき。
そこの超豪華レストランで食べたモノにナニかが入っていたのであった。
一月もの間張り詰めていた神経も、4ツ星ホテルというだけで、すっかり安心し、緊張の糸がプッツリ切れたのだ。(それでも生野菜などは食わなかったのに)
帰りの飛行機の中あたりから、腹がもわ〜〜んとしてきて、冷や汗が出てくるようになってきた。
ううん・・・・ナンかへん・・・・
しかしそれ以上悪化することなく2日くらいは(もわ〜ん)で済んでいた。
ところが。
3日目から、とてつもない下痢に見舞われるようになった。
しかし、腹痛とかがある訳ではなく、「ちょっとオチッコ・・」としゃがんだら、オチッコどころか別ん所からピューと噴出してくるのである。
ナニもせずに10分おき、ナニか飲んだり食ったりしたら直後、そういう状態になるのであった。
24時間10分おき。
これはスゴイっすよ。
しかも、食欲も普通にあり、腹痛もなし。
ただただ体内の水分がジャンじゃか出ていってしまうのである。
その状態が、なんとその後10日間も続いたのであった。
体重は激減。ミイラのようになっていく。
ひ〜〜〜一体どうなっちゃうの〜〜〜・・
しかしそんな異常事態にも関らず、痛みや熱がないばっかりに、医者に行くのが大幅に遅れたのが危うく命取りになるところだった。
11日目の朝、瞼がテテテテテテテテテ・・・と勝手に瞬きするようになり、コーヒーカップを持つ手がガクガクと震え、コーヒーがこぼれるまでになってしまった。
うっひゃ〜〜〜〜〜!
さすがにヤバイ、と思ったので医者に行き、症状を話す。
聞いた医者が、思わず椅子をずらして私から遠ざかる、という事態であった。
その後の検査で、ナンとかという寄生虫が体内で繁殖し、次第に育っていっているという事実が判明した。
(今思えば、あの「もわ〜ん」は卵が孵った時だったのかも)
「もうすこし遅かったら死んでますよアータ。」
医者は顔を引きつらせてそう言いながら、強力な抗生物質を処方した。
それを飲んだ途端、寄生虫と共にありとあらゆる菌が一辺に死んだようで、おかげで善玉菌まで逝っちゃって、膀胱炎になって血尿を出す、という事態を招いた。(痛いのなんのって・・)
インドの山奥ではなく、文明社会で味わうインドの置き土産。
ああ、思い出しても痛いです。
これも読む?
そもそも何故こんなコーナーを作ったか、というと、モロッコでの人身売買組織拉致事件の話しが中途半端になったままで、気持ち悪いからである。
実は、そーゆー怪しい目にあったのは、それだけじゃない。
いちいち長編になるので、暇(これは結構いつもある)と、やる気(これが問題)がある時にしか書けない。 気長に待つように。
アフリカとインドの間にある小さな島に行った時のこと。
そこは、スノーケルでノロノロ泳いでも2時間あれば一周まわれる位の小さな島だ。
島の入り口にはお粗末な船着場があり、その横の大きな堀の中にはこの辺りで捕獲された巨大なホワイトシャーク(俗にいう人食いサメ)が10匹くらい飼われていた。
昼間の暑い盛りには、私はよくこの堀の縁に座ってサメを眺めていた。
ヤツラは普段、折り重なるようにしてじっとしているのだが、たまに現地の人がマグロの頭などを放り投げると一気に獰猛さを発揮し、白目を剥いて奪い合う。
それが滅茶苦茶怖い。獲物を食う瞬間、真っ黒い表情のない目をグルリとひっくり返すのだ。
怖いながらも、日が傾いて少し涼しくなるまでの間、私はこうしてサメを眺めるのが日課になっていた。
ある夕方、私はスノーケルで島一周しようと一人で出かけた。
島から数キロ沖までは珊瑚礁のリーフになっており、深くてもせいぜい肩のあたりという遠浅である。
ありとあらゆる種類の熱帯魚や、素早い泳ぎで私の横を掠めて行く大型の魚などと戯れつつ、島を半周したあたりで疲れた私はあお向けになり、プカプカ浮きながら休憩していた。
たまに、熱帯魚が背中や尻をツンツンと突つく。それがまた心地よく、私は中ば瞑想状態(居眠りともいう)になっていた。
すると、いきなりググッと足ひれを引っ張られたような感覚がし、私は驚いて体を反転させて水中から自分の足元を見た。
そこには、私が毎日見ていたアレがいた。
!ガボゴボゲボ…
もはやそれは悲鳴にもならない。
人間パニックに陥ると判断力はゼロになる。
必死に逃げようとメクラ滅法泳ぎまくるが(というより、暴れてただけかも)元々浅い所なので立ち上がって逃げたほうが早い。よく考えればわかることである。
しかし、私は海面に顔を出したり沈んだりしながらバシャバシャと余計な体力を使い続けた。
珊瑚で体のあちこちを切って、そこから流れ出る血が水中に広がる。
その血のひろがりの中で、アレは歓喜の踊りを踊るがごとく口を開けてグルグルと回る。
無表情な黒い穴の目のアレは、追い詰めた獲物をもて遊ぶかのように私の周りをゆっくり回る。
地獄絵である。
しかし私は、必死になって足ひれを脱ぎ捨て、ヤツがそれに気を取られている隙になんとか岸までたどりついた。
ぐったりと流木に座り込んで放心状態のままどのくらい過ぎたのだろう。
あたりが薄暗くなってくる頃やっと私は立ちあがり、どうやって島の反対側のコテージまで戻るべきか考えた。
とてもじゃないが、また泳いで戻る気はしない。
仕方なく、島の真中を突っ切っているジャングルの道(といっても獣道に毛が生えたようなもの)を歩くことにした。
ジャングルの中には蛇だの訳の分からない虫などウジャウジャしているだろうが、アレに食われるよりはマシだ。
私はまだショックから覚めやらないまま、トボトボと歩き続けた。
コテージの入り口近くには、現地の世話人が行方不明になった私を心配して立っていた。
私を見付けた彼は松明を持ったまま走り寄った。
そして私の姿を明かりで見た途端「うわぁ!」といって退いた。
「さ…サメが…」
今にも倒れそうな私が差し伸べた救いを求める手を、彼は払いのけ後ずさりしながら、他の仲間を大声で呼んだ。
後から出てきた救急班のおばちゃんにコテージの診療所に連れて行かれ、そこで始めて己の姿を見て、私は失神寸前になった。
全身コブだらけなのである。顔も目の上、額、ほっぺたなどアチコチがもっこり脹らみ凄まじい形相。
このコブは、私がジャングルを歩いていた時、血のニオイでたかって来たブヨに刺されまくった跡であった。半ば放心状態で歩いていたので、刺されたことに全く気がつかなかったのだった。
後に事の顛末を聞いた現地の世話人は私にこう言った。
「リーフの中にいるのは1メートルくらいの小型サメで、人を食ったりしないよ。」
あの時私は一瞬でパニックに陥ったが、思い出して見れば確かにいつも堀で見ていたヤツラとは全く違う小さな種類だったかもしれない。
しかし刷り込みとは怖いもので、あの時私はアレが白目を剥いて今にも襲いかかって来るように見えてしまったのである。
そう言うと、世話人は「君のあの姿は、僕等の間ではサメなんかよりずっと恐ろしいゾンビとして有名になったよ。」と言ってゲラゲラ笑った。
地球の裏側の名もないような小さな島で「日本人ゾンビ」として語り継がれることになろうとは。
その後、現地の人達みんなに「バイ!ゾンビ!また来いよ〜」と見送られる時まで、私は猛烈な痒みにのたうちまわっていたのであった。
その事件は、モロッコの首都ラバト近くの小さな街で起こった。
数々の苦難を乗り越えつつも、目的地のカサブランカはもうすぐだ、という所で気が緩んだのだろうか。
途中まで「さめ肌」に書いたので、ご存知の方もいるかもしれないが、その晩どうしても泊る所が見つからず、英語で声をかけてきた子供に宿を案内してもらう事にした。
最初彼等はクネクネと迷路のように曲がった路地裏にある薄汚い所に私を連れていった。
宿と呼ぶにはあまりにも貧相な小屋。宿泊代は日本円で300円くらいだった。
いかにも怪しげな所でかなり不安になったが、夜も更けてもう他を探す余地はない。
ガイドしてくれた子供達も、めずらしく金をせびることなく帰っていった。
やれやれと、荷物をほどいていたところに、彼等が血相変えて戻ってきた。
「今、母親に君をここへ案内したこと話したら、とんでもない!アブナイ所だからすぐ別に移りなさい!って言われたんだ。」
「ぎょえ〜。マジかよ。」
あわてて荷物をまとめて逃げるように脱出。彼等の後を必死に走ってついていく。
ああ…・私はなんてラッキーなの。親切な子供に助けられた。後でしこたま小遣いあげよう…。そんなお目出度い事を考えながら。
彼等が次に私を連れていった所は、2階建ての口の字型の建物。
大きな中庭があり、先ほどの安宿とは雲泥の差だ。しかも、宿泊料もたいして変わらない。
そこの2階にある小さな部屋に通され、私は子供達にチップをはずんでやって帰した。
部屋はやけに殺風景で、ベッドと壷の飾り物一つあるだけ。トイレは部屋を出て一番端にある。
今度こそゆっくり眠れる。
荷物をそのへんにおっぽりだして、ゴロンと横になりウトウトとまどろみかけた。
ふと、視線を感じてドアのほうを見て凍り付いた。
何人ものオトコがドアについている窓からこっちを覗いているではないか。
私が気付くと同時に、彼等は一斉に怒鳴りあい、外は押し合いへしあいの大騒ぎになった。
あるものは、窓から手招きして「立て」と言っている。あるものは「ぐるっと回れ」みたいな事を言っている。
なんだなんだなんだー。
いかに鈍い私でも、ここまでくれば事態は把握できる。これは人身売買組織の館だったのだ。彼等は今まさに、私の値段を交渉しあっているのである。
なんてこった。まんまと騙された。
それにしてもなんて手の込んだ罠であろう。 私はあっさりそれに引っかかり、ご丁寧にガキどもに金までやってしまったのだ。
なんという不覚。あれだけ英語を喋るヤツ(これらはガイドを装ったタカリであることが多い)には気を付けていたのに。
相手が子供の二人連れだったことが、判断を鈍らせたのかもしれない。
今更悔やんでもどうにもならないが、一体これから私はどうなるのだろう。
泣き出したい気持ちと焦りを堪え、頭を激しく回転させるも、出口の無い迷路に入りこんだようにナンの妙案も浮かばない。
そうこうしているうちに、猛烈にトイレに行きたくなってきた。
しかし、トイレに行くには部屋を出なければ行けない。
じっとりと脂汗が滲む。
私はバックパックの奥からバンダナを取り出し、窓に目隠しをしようとわずかな木のささくれに引っ掛けた。
怒ってドアを叩きまくる男達の目を見ないようになんとか窓を隠してから、おもむろに飾ってある壷を引き寄せ、その中に思いきり出した。
叩かれるドアの振動によってパラリとバンダナが落ちるのと、パンツを引き上げるのはホボ同時であった。ひぃ。
それから何時間経ったのだろうか。
疲れ果てた私は、もうどーでもいいや、という気持ちになって入れ替わり立ち代り覗きに来る男達を無視してベッドに横になっていた。
ふと気が付くと、なんだか外が静かになっている。
あれほど群がっていた男達もいないようだ。 恐る恐る窓から外を覗いてみた。
夜が明けかかって青白いもやが薄っすらとかかっている。
まわりに誰もいないのを何度か確認してから、荷物を背負ってそっとドアを開けてみた。
どこからともなくコーランの祈りの声が聞こえる。
そうか。ヤツ等は今、お祈りの時間なのか。
これはもう、今しか脱出のチャンスはない。
しかし2階から降りて中庭に出た時、私は息を呑んだ。
来た時は気がつかなかったが、出入り口にはでかい門があり、ぴっちり閉じられたそれは聳え立つように行く手を遮っていた。しかも、巨大なカンヌキまでかかっている。
そしてその前に、門番なのか一人の男が椅子に座って腕組みをし、下を向いてどうやら居眠りしているようだった。
どうする。どうする。どうするー。
頭では対策を必死に考えようとしているが、体はそれに反してズイズイと前に進んで行く。門番の男まで後2.3メートルに迫った時、男がふっと顔を上げた。
その瞬間。
私の右の踵が男の顎を蹴り上げていた。
中庭全体に響き渡る音をたてて、男は真後ろに椅子ごとひっくり返った。
その男を踏み付け、一気にカンヌキを引きぬき、私は走ってそこを脱出したのである。
朝もやの漂う細い道をコーランの祈りを全身にうけながら、まるでスローモーションのように逃げる。どこをどう走ったのか記憶は無い。
しかし今でも私は、あの時の空気のニオイ、踏みしめる土の感触、自分の心臓の鼓動、全てを鮮明に思い出すことができる。
どこ行きかも確認せず、止まっていたバスに飛び乗り、泥のように眠りこけて終点までいった。そこが首都ラバトであった。
ラバトの街をヨレヨレになって歩いているところを、アメリカ大使館の職員に保護された。
彼は、私にステーキとビール(外国人専用の特別なホテルなどにしかない)を食わせ、そこでゆっくり休むように手配してくれた。
そして彼は、ここで年間何十人もの人身売買の犠牲者が出てる事を細かく説明してくれ、お前は本当にラッキー中のウルトララッキーだった、と何度も何度も言っていた。
おちょろちぃ。
とか、ふざけて言えるのも今こうして生きているからで、私はたまにあの時あのまま何処かに売られていたら一体どんな事になっていたのだろうか、と想像しては身震いするのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、モロッコに渡って三日目。 ついにバスでの寝起きに耐えられなくなり、安ホテルを捜し当てベッドに倒れこんだ。
もう長い間ロクに物を食っていない。 体の疲れもピークに達し、少し弱気になってきた頃である。
ベッドに潜り込んでも、中々眠れない。そのうち、背中に妙な感覚がわいてきた。
どうも、汗が流れるのである。 日中は40度近くまで上がる気温も、夜は一気に冷え込み暑いという感覚はない。
冷や汗が流れるなんて、さては…・病気になったに違いない。 「そーだよな〜。気まぐれで来ちゃったんだもん。予防注射も受けてないし、何も食ってないし、ここでひっそりと死ぬんかい・・ああ・・」とめどめもなく、落ちこんでいくアタシ。
しかし、どうも様子が変だ。
背中を下にすれば背中だけに、横を向けば下になってるほうだけに、汗が流れるのである。
ゴソゴソと眼鏡を取りだしベッドを確認してみる。
別に異常なし。
気を取りなおし横になってみる。やっぱ汗流れる感覚あんじゃ〜ん。なにこれ〜。
今度はそっとシーツをめくってみた。
すると、ザザザ〜〜〜〜〜っとベッドが震えたではないか。
ぎょえ〜〜〜〜〜‘。呪いの館〜〜〜〜〜。
恐る恐る近寄ってみてみたら、あーた、そこにはビッシリと訳の分からない小さな虫がベッド一面に張り付いているじゃ〜ないのよ。
そいつらが、体の重みに耐えられず移動してるのが、汗が流れるような感覚になって伝わってきてた、ってことなのだ。
……・・その後。
シーツを元のように直し、枕をポンポンとたたいてから横になり、朝までそのベッドで爆睡した。
今思えばトンでもないが、その時は「よかった〜〜。病気じゃなかったのね〜。」って安心しちゃったのさ。
あ〜こわ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スペインの南端の街に着いたら、そのままUターンして戻ろうと思っていた。
しかし、港に立って向こうを見ると、すぐそこにアフリカ大陸があるじゃないか。 聞けば高速船で2時間で行けるという。
目の前にアフリカ大陸があるのに、ここで渡らずに終わったら、絶対後で後悔するに決まってる。
そんな訳で、翌日朝一番の船に乗りこんだ。
唯一聞いたことがある都市の名前 「カサブランカ」を目指し、ぎゅーぎゅー詰めのバスを乗り継ぎ2日半。
なんせ、文字も読めず言葉も通じないのだ。 レストランらしきものも見当たらず、飢えは休憩所みたいなところにある、炎天下に放置されっぱなしのコーラで凌ぐ。
そんなとき、スーク(青空市場)の向こうの片隅にパン屋らしきもの発見!
干しブドウ入りピタブレッド(丸くて平べったい)がうず高く積まれている。 ああ、やっと口にできる固形物。
走って行った。 残りわずかなエネルギーを全開にして。
店の前にたどりついた途端、ぶわ〜〜〜〜〜ん、と干しブドウが散った。
極限の空腹状態が見せる、究極の幻覚。
パンではなく、羊の脳みそ。 干しブドウではなく、ハエの大群。
たーすーけーてー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、続きとしてはバーレーンからスイスまでの事になるのだが、気分が乗らないので、別の旅の出来事を書く。
スリランカを経由し、日本に戻る時の事だ。
スリランカで約5時間の待ち時間があり、手持ち無沙汰でイライラしはじめていた。唐突に「スリランカカレー」を食ってみたい、という衝動にかられ、乗り継ぎをキャンセルし(確か72時間以内ならビザがいらなかった)空港のタクシー乗り場に行った。
雲助みたいなボッタクリタクシーとしばらくやりとりをし、とりあえず空港から一番近い繁華街へ乗せて行ってもらうことにした。
空港から真っ直ぐのびた道を数百メートル走った所で、ガ−ン!という衝撃がし、とっさに「うわぁあ、事故ったー!」と思ったが、運転手がバックミラーを凝視しつつ「う・・・後ろ・・」と指差すほうを振り返ると・・・・・
目に飛び込んできたのは、黒煙をあげつつ、スローモーションで崩れ落ちる空港のビル。 逃げ惑う人々。
テロであった。
空港内にいた人を含み、死者数十名を出したこの惨事を偶然目撃することになろうとは。
というか、「スリランカカレー」などと食い意地がはっていたばっかりに、命拾いしたんじゃないか?とも思うが。
その後、ある程度復旧し臨時便で帰るまでのあいだは、ホテルに缶詰め状態だったので、地元の食堂で食う本場のスリランカカレーは食えず仕舞いだった。
今だに残念である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
韓国からサウジアラビアを経由して、スイスに入る時だった。
バーレーンという所で給油の為4時間くらい待たされていた。 蒸し暑い空港内でやることもなく、だら〜っとしていたら、いきなりマシンガンを抱えた連中が 「全員そこに並べ!」 とか言って乗客を集め出したのである。
何がナンだかわからないまま連行され、下に止めてあったバスの前で二つのグループに分けられた。
一つは大人のグループ。もう一つは子供のグループである。 そこでなぜか私は子供のグループに入れられた。なんだか釈然としない。
格グループを更に細かく 「白人系」 「アラビア系」 「アジア人系(私一人)」 に分けてから、マシンガンの先で小突かれながらバスに押し込まれたのである。
バスの中で一人ずつパスポートチェックされ、私のパスポートを見て 「なんだ、おめぇ、大人じゃんか。(アラビア語。多分そういった)」と、自分達で勝手に仕分けしたのを棚にあげ、いまいましそうにパスポートを投げてよこした。なんだかやっぱり釈然としない。
全員のチェックが終わると、また小突かれながらバスから降ろされ空港内へ戻された。
私以外は。
彼等から見たら「子供」に見えるアジア人の女が「一人」でこんな所にいるのである。
充分 「不審人物」 ではあるだろう。 しかし。 持ち物をいちいちチェックするのはいいが、当時のオトコから無理やり持たされた 「お守り」 にマシンガンを突きつけ 「開けて中を見せろ!」 なんてやられると、馬鹿馬鹿しくて笑いもこみ上げてくるだろう。
得体の知れない女が、訳のわからん包み(お守り)を前に、不気味な笑いを浮かべている図。
今思えば、彼等にとっても気味が悪かったのだろうが、目の前にマシンガンを突きつけられてるこっちだって、メチャクチャ怖い。
結局あれこれ調べられたが、飛行機の出発前には解放された。
これから一ヶ月以上続く旅の初っ端からこれでは、先が思いやられる。
飛び立つ飛行機の窓から、小さくなっていくオレンジ一色に彩られたバーレーンの街灯を見詰めながらため息がでた。
そして、心密かに「やっぱりお守りのオトコとはわかれよう」と決心していたのだった。