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わずか60数年前
あの戦争で
何千万という自国と他国の人間の人生が破壊された。
若者たちはすべての未来を奪われた。
その犯人が、野放しにされている歴史に対する激しい怒りが、いま、2002年の若者たちの中に充満している。
戦後の無責任利権体制はすべてこの決着から逃げてきたことに発している。
現在のデタラメ日本を若者たち押し付けた戦前、戦中世代の犯罪者たちに対する怒りが日に日に高まっている。
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1982(昭和57)年 8月24日
鈴木善幸首相〔教科書問題での記者会見〕
「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」
「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」
1984(昭和59)年 9月7日
昭和天皇・裕仁氏〔全斗煥韓国大統領来日、宮中晩餐会〕
「今世紀の一時期において、不幸な過去が存在したことは、まことに遺憾」
中曽根康弘首相〔歓迎昼食会〕
「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」
「深い遺憾の念を覚える」
1996(平成8)年 6月 橋本龍太郎首相
「創始改名などが、いかに多くの韓国の方の心を傷付けたかは想像に余る」
「(従軍慰安婦問題について)これほどの女性の名誉と尊厳を傷付けた問題はない。
心からお詫びと反省の言葉を 申し上げたい。」
1998(平成10)年 10月8日 天皇・明仁氏〔金大中大統領、訪日〕
「わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみを与えた時代…
深い悲しみ」
小渕恵三首相〔「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」共同宣言〕
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「従軍慰安婦」問題に関する国連人権委員会の報告
勧告
特別報告者は以下の勧告を行いたいと考える。
日本政府は、
(a)第二次世界大戦中に日本帝国陸軍により開設された慰安所制度は国際法上の義務違反であることを認め、上(右)違反に対する法的責任を受け入れるべきである。
(b)・・・・・・日本の軍隊性的奴隷制の被害者個人に補償を支払うべきである。犠牲者の多くは極めて高齢であるので、この目的のため、時限的な特別行政裁判を設立すべきである。
(d)日本の軍隊性的奴隷制の女性被害者として名乗り出た者で、かつその旨立証することが可能な個人に対して書面で公式の謝罪を行うべきである。
(e)歴史的事実を反映するよう教育課程を改訂することによって、こういった問題についての意識を向上させるべきである。
(f)第二次世界大戦中の慰安婦募集及び慰安所開設に関与した者を可能な限り特定し、処罰するべきである。
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『朝鮮人虐殺関連官庁史料」<関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料>』(琴
秉洞篇)・緑蔭書房 1991年
『強制連行された朝鮮人の証言 』朝鮮人強制連行真相調査団
・明石書店 1990.8
『写真集> 証言する風景名古屋発朝鮮人・中国人強制連行の記録』
「証言する風景」編集部・ 風媒社 1991.8
『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 国際法律委員会
・明石書店 1995.3
『朝鮮人強制連行調査の記録 兵庫編』朝鮮人強制連行真相調査団
・柏書房 1993.11
『秋田の朝鮮人強制連行 歴史の闇を歩く』
野添憲治編著・ 彩流社 1999.8
強制連行された人々は、日本皇軍による人権を全く無視した狂気じみた民族差別の中で家畜以下の取り扱いを受けた。日本の植民地支配下にあった朝鮮半島では、徴兵で若者を根こそぎ狩り出した日本国内での労働力不足を補うために徴兵・徴用として多くの人たちが強制連行された。1940〜45年の間だけで日本に連れてこられた朝鮮人は120万人余りといわれる、沖縄戦にも1万に余りの朝鮮人が送られ、戦争の犠牲者となった。
証言
今でも忘れられないことがある。ある日、あまりにかわいそうなので朝鮮人軍夫にオカラと芋を混ぜた馬糧の中の芋だけを拾って食べさせた。(そんなものしか与えられなかった)。ところが、これが班長にばれた班長は軍夫を並ばせ、「今食ったものを全部吐き出せ!」と命令した。軍夫たちは口に指をつっこんで、無理に吐き出した。それにいく粒かの麦が混じっていた、すると班長は、「おまえらおそれ多くも皇軍の食料を吐き出したな。誰がそれまで吐き出せといったか。粗末にするな拾って食え!」と怒鳴った。軍夫たちはしかたなく、麦粒を拾って食べた。すると班長は「誰が余分に食えといったか。余分に食ったものを出せ」と命じた。これを何度も繰り返していた。
(「強制連行虐殺調査団報告書」より 富村氏)
証言
(強制連行されたのは男性ばかりではなく若い女性達が「慰安婦」として戦場へと送られた)この女性達はみな20代(一人だけ19歳)だった。1944年9月頃、古賀隊と一緒に来た。「南風荘」というクラブを作って住まわされた。午前中は雑用、糧秣運び、それに壕堀、材木切りなどもさせられ兵と同じように働かされていた。そのうえ、昼の12時からよるの12時頃まで全部隊(日本将兵300名)の相手をさせられていた。昼は兵、夜は将校だった。札を持った兵隊たちが列をつくって並んでいた。(中略)酒を飲むといつも「死ぬ」といっていたのは、アケミという23歳の人だった。演芸会などがあるとこの人は、よく朝鮮のうたをうたっていたが、そのたびに涙を流していた。悲しい歌でみんなもらい泣きした。本島に帰ってからハルミとコユキという人が死んだと聞いている。コユキさんはタマにあたって死んだと日本兵から聞いた。
(「強制連行虐殺調査団報告書」より 兼島氏)
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われわれ日本人の手で戦争責任の裁判を行うべきである。
今からでもしないよりは増しだ。
戦後の無責任利権体制はすべてこの決着から逃げてきたことに発している。
いま、このデタラメ日本を押し付けた戦前、戦中世代に対する若者たちの怒りは日に日に高まっている。
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作家・渡辺淳一氏が拉致問題について
2002・10・12号の週刊誌に書いている。
その一部を引用
、、、、
加害の歴史
この、日本だけ異様に怒り、まわりの国々は淡々と、むしろ他人ごとのように冷ややかに見ている理由はなになのか。
ここから先はわたしの推測にすぎない。
いや推測というより、わたしが目撃した、ある事実を記すだけである。
それが、この理由になるかどうかはともかく、いまのマスコミをはじめ、日本人にしっかり知ってもらっておく必要はありそうである。
かつて、わたしの祖母や親戚たちは、北海道の砂川や歌志内などで、味噌、醤油などを売る雑貨店や新聞店をやっていたが、この一帯は北海道で有数の炭鉱地でもあった。
札幌の小学校に通っていたわたしは、それら親戚のところへ、ときどき遊びに行ったが、そこで何人かの朝鮮人を見ている。
彼等はいうまでもなく戦時中、日本の権力によって強制連行された人たちである。
その数はどれくらいになるのか。
一説によると、二百万とも四百万ともいわれているが、かなりの朝鮮人が日本全土に強制的に連行されてきたことは、まぎれもない事実である。
彼等は一様に、真冬でもポロポロの服を着て、痩せて目だけ光っていた。そんな虜囚のような群れが、暗く危険な炭鉱の坑道に送り込まれるのを見たことがある。
さらに新聞店をやっていた親戚の広い庭の下が崖になり、その川沿いに朝鮮人飯場が並んでいた。そこでは朝鮮人たちを労働にかりたてるため、ご飯も立ったまま食べさせて、働きの悪い奴は日本人の棒頭に叩かれて泣いていたと、飯場を覗き見てきた少年がいっていた。
事実、わたしはその少年に手引きされ、恐いもの見たさで飯場に近づき、朝鮮人が半死半生のリンチにあっているのを目撃した。
叔父が、崖の下へ降りてはいけない、といいながら、脱走してきた一人に、餅をあげたのを見たことがあるが、その男は、「アイゴー、アイゴー」といいながら、手を合わせてむしゃぶりついていた。
以上は、わたしが小学一、二年生のとき、一瞬、垣間見た地獄絵である。
この結果、どれほどの朝鮮人が行方不明になって殺されたかわからないが、こういう過去があったことはまぎれもない事実である。
そして当時、日本は植民地であった朝鮮を、日本領土として地図の上で赤く塗りつぶし、その人々に日本語を強制し、名前をすべて日本名に改名させ、天皇、皇后両陛下の写真を毎日、拝ませたのである。 いいかえると、朝鮮の文化や風習を根こそぎ、破壊したのである。
知らぬは日本人だけ
以上は、いまから五、六十年前、植民地時代とはいえ、日本の各地で当然のようにおこなわれていたことである。そしていま在日朝鮮人のかなりの人が、当時、日本人が有無をいわせず連行してきた人たちの、子孫なのである。
当然のことながら、加害者は自分のしたことを忘れ、被害者は永遠に虐げられたことを忘れない。
事実、わたしは三十代半ばの、美しい在日朝鮮人の女性が、「日本人は大嫌い、絶対日本人とは結婚しない」といっていたのを覚えている。
彼女は、植民地時代の日本への憎悪を両親から教えられていたようだが、いま十代、二十代の若者も、お爺さん、お婆さんから、延々ときかされているかもしれない。
だが、こうしたことは日本人のほとんどが忘れていて、教科書で教わることもない。 さらに恐いことは、いまマスコミの第一線にいる者から、さまざまな政治家、官僚から小泉首相まで、そういう事実がたしかにあったことを知らないのである。
たとえ、本で多少読んだとしても、世代によって差があり、実感としてはまったくわかっていない。
しかし、韓国はじめ中国、そしてアメリカもみな、これらの事実をよく知っているのではないか。いや、知らないわけはない。
だから、とはいいたくないが、彼等のどこかに、「お前たちのやったことに比べたら、、、」という気持ちがないとはいいきれない。
たしかに拉致問題は重要だが、同時に、アメリカ、中国、韓国のこの問題に対する冷ややかな態度を、いま一度、冷静に考えてみる必要がありそうである。
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長野県田中康夫知事 在日外国人登用
2001年(平成13年)7月
長野県の田中康夫知事は6月26日、記者会見で一定の条件を満たした定住外国人を対象に県職員採用時の公務員国籍要件を撤廃するとの意向を明らかにした。
田中知事の意向表明を受けて、県の総務部人事課ではこれから国籍要件撤廃に向けた具体的な検討に入る。その結果を受けて、県人事委員会が正式な結論を出すため、実現は早くても来年以降になる見込み。
県で公務員国籍要件を課していないのは医師や保育士など23種類ある。但し、一般行政職については開放していない。県内市町村レベルでは、松本市が平成9年採用試験から一般行政職の国籍要件を撤廃した。
国籍要件などというものが今まで残っていたということは県民として恥かしい限りであるという若者たちの意見が漸く反映された。
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朝日新聞「天声人語」9/21
暗い気持ちに追い打ちをかける事件がまた起きている。在日朝鮮人への嫌がらせである。
日朝首脳会談で明らかにされた拉致事件への「反応」だろう。例によって被害者には民族服を着た女子生徒が含まれる。悲しいというよりうそ寒い気持ちにさせられる。
最近では98年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「テポドン発射」以後に集中した。
東京では15歳の女子生徒が若い男に刃物で手を切られる傷害事件も発生した。生徒の安全のために朝鮮学校の制服の「自由化」が99年に検討され、その後「自由化」が進んでいる。
その前は北朝鮮の核疑惑が問題になった94年ごろで、このときは嫌がらせの件数も多かったが、それに対抗する様々な動きもあった。女性団体、市民団体、文化人グループそれに地方議会などが抗議の声明を出したり抗議行動をしたりした。
ほっとさせられる話もあった。94年、横浜市の駅ホームで若い男になぐられ入院した14歳の女子生徒は、「やめろ」と止めに入った高校生らしい男性にこんな感謝の言葉を述べている。
「お兄ちゃんがいなかったら私はもっとひどいけがをしていたと思います。会ってお礼を言いたい」。
嫌がらせの事例はどれもよく似ているのに驚く。何かの事件に便乗する。「おまえ朝鮮人か」「日本人になれ」などの罵声を浴びせる。ナイフで民族服を切ったりこづくなどの「軽い」犯罪にとどめる。
少女ら弱者をねらう。
こうした品性を疑われる犯罪は、拉致事件とは次元がまったく違うとはいえ、事件追及に水を差す行為だ。
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「大局を見失うまい」 02/09/22社説より
、、、、かつて日本の植民地だった朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、日本と国交のない唯一の国だ。
悲憤に堪えない拉致事件への感情は当然として、北朝鮮が異常な国であることは、とうに国際常識でもあった。だからこそ、安心できる国になるよう一層の変化を促していくことが、いま日本にとっても大切なのだ。
、、、
一方で、総書記が世界に恥をかいてまで「拉致だった」と認め、はっきり謝罪した大転換も驚きだった。拉致事件の究明や対策にいっそう神経を使うべきことは言うまでもない。
同時に大局を見失ってもならない。ためらわず、正常化交渉を再開させることである。
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姜尚中(かん・さんじゅん)東京大学教授
若一光司(わかいち・こうじ)作家
ともに1950年生まれの俊英
、、、、、
(姜尚中氏)法務省で議論してた時の話に戻りますけど、はじめは、実定法のことを細かくやりとりしていたんです。実務上どうだとか、法律上こうだ、人権上とかね。ところが、ぼくが最後に「どこでわけるんですか」と聞いたら突然、飛躍してね。ロイヤリティ(LOYALTY=愛国心・忠誠心)といいだした(笑)。
(若一光司氏)なるほどねぇ、ぼくは持ってるんだろうか(笑)。でも、ロイヤリティと考えると心理的なものですよね。
(姜尚中氏)そう、まったく実定法の、実務的な問題ではない。しかし国というものは、そういうかたちで人間を見ているという事実、ぼくはそれに非常に衝撃を受けたわけです。そのような視点のある日本の中で人権を捉えて、国籍の見えない璧を超えて、それが普遍的に適用されるような状況を一体どうやって創ったらいいのか、と。そういう状況を創るには、何が必要だと思いますか。
(若一光司氏)まず、意識改草ですね。我々の意識も変わっていかなきゃならないし、在日もまた変わっていかなきゃならない。小さなレベルの問題の解決をひとつひとつ積み重ねていかなくちゃならないと思いますね。
(姜尚中氏)そのとおりです。しかし、そうやって意識改革していって、それでも最後に国家という璧が立ちはだかるわけです。ぼくは、どこにこだわっているかというと、結局そこにこだわっているわけです。
、、、
(若一光司氏)だからぼくは二十一世紀はまさに、人権の時代だ、人権こそが一番大きなファクターだと考えているわけです。世界中がもう、入りくむだけ入りくんできた。イデオロギーだけではその世界を把握できない状態になってくると同時に、内的にも外的にも国際化が進んでいく。すると何らかのファクターを持つとしたら、それは、人権でしかない。
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