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上海・南京
1937年の奴隷兵士


ノモンハン1939
破廉恥皇軍指導部
   

ノモンハン奴隷兵士  
1939年肉の破片


若き記者虐殺  
1987年言論襲撃


昭和11年
1936年狂気への日々  



オカルト兵士への道     
1943年の出陣



磯部浅一
ヒロヒト罵倒将校の慙愧    



目次
侵略カルト兵士生産     



掲示板
3億円当選御礼     

[日本皇軍参謀本部は無能だけではなかった]


1939年(昭和14年)7月、ノモンハンの戦場に放り込まれた若者たちは虫けらのように殺されて行った。



ノモンハン事件は2001年の日本である。
日本を縦に貫いてあらゆる所で腐臭を放つ天皇制という究極の利権体制が若者たちの未来を絶望的な暗さで覆っている。戦前から変わらずに続くこの巧妙な奴隷制度が暗く澱んだ構造と化して若者たちを捕らえて離さない。

ノモンハン事件は1939年5月に始まり、9月に終わる日本軍対ソ・外蒙軍との大興安嶺の彼方満州とモンゴルの国境地帯ハルハ河での国境線を巡る戦いであった。今の自民党政権と同じような無能参謀本部では事態を拡大させないようにしようとしたが,関東軍のバカ参謀はそうは考えなかった.特に,辻政信中佐を中心とする関東軍作戦課の参謀達は,これこそソ連叩きの絶好の機会であるとし現地軍に対して独断で越境攻撃を命令した。関東軍は「鶏ヲ割クニ牛刀ヲモッテセンコトヲ欲シタルモノ」とソ連・外蒙軍を明らかに軽侮していた。天皇絶対という完璧な奴隷体制のもとでは客観性のない軽蔑だけが日本皇軍の特質となっていた。当時の関東軍作戦課では、ソ連軍の兵力を飛行機2−3個旅団、狙撃1個師団、火砲20−30門、戦車2個旅団、と推測していた。実際のソ連軍兵力は弾薬燃料など物量豊富であり、しかも狙撃2個師団、空挺1個旅団、戦車1個旅団、装甲車2個旅団、狙撃1個旅団、砲兵2個連隊、通信2個大隊、架橋1個大隊、給水工兵一個中隊と大間抜けな読み違いがあった.
ソ連軍は十分な準備をしていた。初期の航空戦では勝利したものの,地上戦は悲惨なものとなった。5月12日、モンゴル人民軍(外モンゴル軍)がノモンハンからハルハ川を越えて満洲軍と衝突する事件が勃発した。付近のハイラルに駐留していた関東軍第23師団(師団長小松原中将)は、処理要項に従って出撃、外モンゴル軍を退却させたが、まもなくソ連軍がモンゴル側の援軍に駆けつけ、反撃に出た。
 28日、東騎兵連隊がソ連軍機械化部隊に包囲されて全滅。
 関東軍司令部は、ソ連軍撃退の方針を決め、第1戦車団と第2飛行集団を新たに加え、6月27日にモンゴル領内のタムスク基地を爆撃した。続けて、7月2日に23師団は進撃を開始した。
 一方日本政府と大本営は、日中戦争拡大中のため、対ソ戦の不拡大方針を決定し、外交的解決を図ろうとした。しかし、関東軍参謀部がこれを無視、23日に攻勢に出た。しかしソ連軍は、ジューコフ元帥麾下の第1集団軍騎兵3個師団、狙撃兵3個師団、5個機甲旅団を投入。攻勢に失敗した日本軍も、重砲3個連隊を動員して第6軍(司令官荻洲中将)を編成し対向した。
 8月20日、ソ連軍は総攻撃に移り、23日、第23師団は戦車主体の機械化師団に包囲され壊滅。死傷率が師団の70%を越えるという前代未聞の結果となる。
文字通り虫けらのように若者たちは殺されて行った。大体,日本軍の兵站基地であるハイラルからは200kmも離れており,当時の日本軍の実情では補給が続かなかったのである。殺される兵士の事などまるで考えない日本皇軍の本質であった。

「なんという荒野だ、こんな土地に5ドルだってはらうつもりはないね。」GHQの作戦アナリスト、アルビン・クックスが「ノモンハン事件」調査の過程で言った言葉である

師団の壊滅
5月末参謀本部作戦課では事件の拡大を未然に防ぐのを目的とした「ノモンハン国境事件処理要綱」を作成するが、第7師団を主体にした場合、小松原中将の面子をつぶすことになるという理由で「ノモンハン国境事件処理要綱」は優先案とはならなかった。植田関東軍司令官のこのとき言った兵士の命を一個打にしない無能を逆証する言葉がある。「皇軍の伝統は打算を超越し、上下父子の心情を持って結合するにあり、血を流し、骨を曝す戦場における統帥の本旨とは数字ではなく理性でもなく人間味あふれるものでなければならない」人間味とは軍隊内部の過酷な階級性のなかにしかないのである。そうして主力を第7師団から、第23師団に変えてしまった。現地第23師団は編成されたばかりで十分な訓練も行き届いてはいない部隊であった。戦場において機動力のない兵士達は一人40kgを越える装備を背負って歩いて進軍をせねばならなかった。目的地が出発のときから見えているというような広大な戦場なのである。

「5月28日、、、わが軍主力は反撃に出たがおよそ3分で第一中隊は恐るべき損害を被り、将兵、下級兵ともに戦死、・負傷した。敵の砲撃によってわが軍の物資はバラバラになり、兵士の歯は砕かれ、、腹は引き裂かれている。、、、
(ロシア軍事史公文書館・資料、第23師団捜索隊丸田伍長日記)

結局,十分な準備をしたソ連の誇る不敗の名将ジューコフの指揮するソ連・モンゴル合同軍の機械化兵力の前に第23師団は壊滅してしまった。
通常,戦力の10%が失われると戦いの継続は困難になり,30%でほぼ壊滅というのが通説である.このときの第23師団の損耗率は70%を越えていた.つまり,通常の意味での壊滅ではない。つまり、通常の意味での軍隊ではない。皇軍中枢は既に1939年のこの時点で破廉恥集団と化していたのである。

独ソ不可侵条約が締結された。その報が伝わると政府軍部は、日独の同盟関係、日ソの紛争状態での同盟に衝撃を受けた。大敗と独ソ関係の両面から政府は作戦中止を決定した。9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻がこれを確実なものとし、大命降下をうけて関東軍は撤退を開始した。15日、モスクワで停戦協定が成立し終結となった。あの荒野で肉の破片になった若者たちの戦いは天皇の利権を護持する大命によって犬の死に置きかえられたのだ。しかし,1個師団壊滅という事実は帝国陸軍の威信に関わる問題とされ,戦いの真相は国民に伏せられた。このため,辻中佐らに対する責任追求も曖昧な無責任で一貫性の無いものとなった「ノモンハン事件後、陸軍では事件の責任を明らかにするために人事異動が行なわれ上のほうも一応責任を取った形になっている。が、あの作戦で一番の元凶は関東軍の辻参謀だし、次は大本営の稲田作戦課町です。しかし、肝心の彼らは一時的に更迭されただけでまた枢要な地位に戻ってきている。当時の陸軍軍事の風潮は、本当に処罰するべき人を処罰しないで、下のものばかりやっていた。大物や参謀などのエリート階級に手をつけず、温情主義で臨んでいた。こうした点こそがまさに日本陸軍の最大の欠陥だったと思います。」また、元陸軍大佐林三郎氏によれば「積極論者が過失を犯した場合人事当局は大目に見た。処罰しても、その多くは申し訳的であった。一方自重論者は卑怯者扱いされ勝ちで、その上もし過失を犯せば手厳しく責任を追及される場合が少なくなかった。このような陸軍人事行政は次々に平地に波瀾を巻き起こしていく猪突性を助長していった。」
戦場に狩り立てられた若者たちはまさに人間としては扱われなかったのである。

無責任極まりないその構造は2001年の日本そのものである。

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