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平和遺族会全国連絡会(略称平全連〉



1986年7月7日、平全連は蘆溝橋事件の49周年記念日に成立を宣言した。
現在、会は日本各地に15の平和遺族会を擁している。
その宣言の一部。

「私たちは、愛する肉親をアジア・太平洋地域の戦場で失い、その悲しみを秘めて戦後を生きてきました。愛する肉親は再びなつかしい故郷に帰ってくることはなかったのです。帰ってきても、弱り果てた肉体は死を迎えることになりました。
 しかし私たちは戦争の罪悪を痛感するにつれ、複雑な思いに包まれました。私たちの身内を失ったあの戦争は、同時にアジア各国の平和に脅威を与え、民衆の生活を破壊し、2000万人以上の命を奪った侵略戦争でした。私たちは夫や息子や父親の死を『有意義な死』にしようと、自身を慰めています。

私たちは戦没者の遺族として、誰よりも強く平和を要求しています。
私たちは絶対に再びアジアの人民を敵視し、あの罪も無い民衆を虐殺することはできません。私たちは戦争による悲劇を十分に嘗め尽くした者ですから。日本の政府に対して、再び戦争による惨禍を避ける為に最大の努力をするように希望します。このようにすれば、私たちの肉親の悲しみと無意味の死、およびアジア各国人民の死も意義を失わずに報われることでしょう。これこそが私たちの追求する只一つの道です。
さる侵略戦争の最大の責任は、近代天皇制国家において戦争を計画し、遂行した、天皇を頂点とする軍国主義の指導者にあります。

その軍国主義の精神的な核が国家神道であり侵略戦争遂行のために果たした靖国神社の存在と役割の大きさについて、知らないものはありません。私たちの肉親も、「死ねば靖国の神になる」「天皇のため、お国のため喜んで死ぬ」ことを教えられ、「出征」していったのです。

 私たちは、靖国神社「公式参拝」を絶対に認めることはできません。
たとい、政府が、国民や戦没者遺族にとって追悼の中心的施設であると、根拠のない宣伝をしても、私たちは靖国神社と国家とが特別な結びつきをすることがどんなに危険な結果をもたらすかを知るに至ったからです。〔中略〕
 私たちはこうした危険な方向に反対し、自覚を新たにして真の平和をつくり出す原点に立ち、アジアのそして世界の戦争犠牲者と手をつなぎ、力を合わせ、連帯します。そのために、平和を求めるすべての人々に支えられつつ、誠実に、不断の努力を払うべく、ここに平和遺族会全国連絡会を結成します。」



更にキリスト教遺族会がある。
それは1948年8月に成立し、靖国とは戦争観を異にしている。
キリスト教遺族会はかつて声明を発し、「(日本)が発動した戦争は決して偉業ではない。戦没者を『英霊』として祭ることは、決して遺族の願いではない」と、述べた。

 1976年8月15日、キリスト教遺族会は英霊会の世論の宣伝に対して『趣意書』を発表し、「・英霊は決して平和の基礎ではない……戦没者の遺族は『英霊』を否定している。・戦没者の追悼をするなら、個人の宗教や信条を大事にすべきだ。・必ずアジアの戦没者遺族に謝罪せよ」と、いった。
更にこの「趣意書」は「最も大事なことは、日本は目を海外に向けて、アジア各国の戦没者遺族の苦痛を自己の苦痛として考えることによってはじめて、日本の民族中心思想を打ちやぶり、本当の意味の連帯の輪をつくることができる」と指摘している。

婦女子強制売淫刑10年の慰安所経営の犯罪者が英霊として合祀され、右翼の街宣車が走り回り、軍事産業に尻尾を振る神社とは一体何なんだ。

2007-3-30

売淫所「櫻クラブ経営」
婦女子強制売淫刑10年の靖国英霊


軍需利権産業に乗っ取られたが、
若者たちを人殺しに変えて行った。
易々と徴兵などというものに応じるような、
命令されれば黙って銃の引き鉄を引くような、
他人の土地を侵略して女子供を平気で殺すような、
生まれて来た価値も無い情けない人間を作ってしまった。


恩給利権

  「今回の命令は、日本の軍国主義が他の国民に負わしめた巨大な負担を軽減する目的への新しい重要な措置である」と説明し、さらに、従来の財政負担について具体的な数字をあげて、つぎのように指摘している。
  「一九四五年九月三〇日までに、陸軍に支払った退職手当は総額一〇億六〇〇万円、海軍のそれは二二億四一〇〇万円に上っており、その後両者合せて一五億円の退職手当支払が予定されていた。因みに、以上の金額は現金及び証書の双方を含むものである。軍人恩給の廃止によって、復員終了後年額一五億円の経費節減が期待される。」
 さらに旧来の軍人恩給が”加算”などにより、どのような″優遇措置″をとっていたかについても細かく指摘した。
  「軍人恩給の最低額は退役後における俸給の三分の一で、将校は一三年、下士官、兵は一二年の勤務を経て恩給を受取る資格を生ずる。然しながら、日本軍人は多くの場合、僅か一年の勤務に対して二、三年また四年勤務したと認められている。在外勤務の一年は国内勤務の四年と計算され、航空機搭乗員は一年を三年に、潜水艦乗務員は一年を二年に計算されていた。
  日本側の情報によると、二五歳以下の若い軍人で恩給を受けていた者が少なくなかったといわれ、また、民間の教師や官公吏が俸給の二%を恩給の基礎として払込まなければならないのに対し、軍人は僅かに一%を払込むだけであった。更に、軍人以外の恩給が公の俸給額に基いているのに対し、軍人の基準は俸給額よりも遥かに高いところにおかれ、例えば陸軍少尉の年給は八六〇円であるのに対し、一四〇〇円を基準に計算されていた。」
 そして、結論的に、つぎのような評価を下している。
  「この制度こそは、世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったものである。日本人の一部が、軍人となることに魅力を感じている主たる理由の一つは、恩給がよいということにある。他の階級に比べて生活の苦しい農民は恩給があるが故に、その子弟を軍隊に送ったのであった。〔中略〕もっとも、われわれは不幸なる人々に対する適当な人道上の援助に反対するものではない。養老年金や各種の社会保障の必要は大いに認められるが、これらの利益や権利は日本人全部に属すべきであり、一部少数者のものであってはならない。                           
   現在の惨憺たる窮境をもたらした最大の責任〔者〕たる軍国主義者が、他の多数人の犠牲において極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなけれはならない。われわれは、日本政府がすべての善良なる市民のための公正なる社会保障計画を提示することを、心から望むものである。」(前掲『日本社会保障資料T』)

 いささか長い引用になったが、ここでは日本の戦争を内から支えた軍人恩給に象徴される制度に対し、具体的にメスが入れられており、興味深い指摘となっている。なかでも、軍務に服したものに特権的補償を与える制度は廃止し、戦死者なり戦傷老などに対する救済は、一般的な社会保障制度の充実によっておこなわれるべきとする指摘は、傾聴に値しよう。
この 「覚書」後においても、日本政府はその内容の緩和をGHQに求めたが入れられず、一九四六年二月、「恩給法の特例に関する件」(勅令六八)によって、重度戦傷者に対するものを除き、いわゆる軍人恩給は廃止された。『遺族と戦後』

英霊・アメリカ人捕虜の人肉で大宴会

父島人肉食事件・・陸軍、海軍の上層部がアメリカ人捕虜を殺害してその肉を酒の肴にして大宴会。
第109師団の師団長は栗林中将である。
本来は師団本部は父島にあったが、米軍が上陸するのは硫黄島とにらみ栗林は自ら硫黄島で戦う決意をして父島には堀江を残した。ここには師団とは別に陸海軍があった。陸軍混成第一旅団立花少将9000人と海軍6000人であった。
堀江少佐は、ホール中尉という捕虜を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていた。しかしそのホール中尉も遂には連行され、喰われた。だが堀江少佐は『闘魂硫黄島』の中では、立花少将を頭の鋭い実行家、的場少佐をマレーの勇者、森少将を自らケーキを作り振舞うなど気さくな人物という風にしか書いていない。
吉井静雄海軍大佐が捕虜殺害人肉食を部隊でみんなで食った。
硫黄島と違い父島には食料は十分にあったのにである。
・・・最初は海軍が処刑した捕虜を喰ったが、そのうち喰うために処刑するようになった。
またその処刑も、一思いに殺すのではなく、木に針金で縛り付けて行われるなど、残虐なやり方であった。
旅団長命令で、嫌々捕虜を斬った召集の60歳代の中佐は、後に絞首刑となった。
一方海軍の森中将は、米内光政の参謀を務めていたことがあり、非常に米内を尊敬していた。しかし「人間の肝は日清日露の戦役では薬用として食べられ、征露丸と呼んでいた」というような怪しげな知識を振り回していたという。そのせいか、海軍は陸軍に対して、「今度捕虜を処刑したら肝臓を持ってきてもらいたい」というようなことを頼んでいる。
戦後、遂にこの事件を嗅ぎつけた米軍は、果たして怒り狂った。
森中将だけは死刑を免れたが、立花、的場、吉井を含む5人が絞首刑となった。ちなみに、ここで処刑を逃れた森中将もマカッサルの裁判に於いて刑死している。岩川隆『孤島のつちとなるとも』によれば、立花少将、的場少佐は、処刑の前日まで、踏む、蹴る、殴る、壁に叩きつける、気絶したら水を浴びせかけるといった凄まじい虐待を受け続けた。
二人は這うように処刑台を上がったのではないか。ただ父島の通信隊司令であった吉井大佐は、「無差別空襲をするパイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令はすべて自分が出した。部下に責任は無い」という態度を崩さなかった。そのせいか、海軍で極刑となったのは彼一人である。

参考ー「昭和史の謎を追う」〈下〉 秦 郁彦
    「父島人肉事件の封印を解く」梯久美子





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