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上海・南京日記
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2001年の戦場

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1937殺戮

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オカルト兵士への道     
1943年の出陣

磯部浅一
ヒロヒト罵倒将校の慙愧    

目次
侵略カルト兵士生産     

掲示板
    
陸軍歩兵36連隊に投げ込まれた若者の日記


昭和12年、1937年7月7日、北京郊外、盧溝橋でおきた日中両軍の衝突をきっかけに、日本と中国は、全面戦争に突入していった


大阪からの船に放り込まれた36連隊の目的地は、日中激戦の上海。当時上海の日本侵略皇軍は、抗日の機運が高まる中で、中国の精鋭部隊に、苦戦を強いられていた。

 
一人の普通の若者が、愛国、天皇絶対という凶悪な犯罪カルト教義を叩き込まれ惨烈な戦場の中で、平然と女子供を殺す殺人兵士に変えられていく姿が浮かび上がる。




陸軍歩兵36連隊に入隊したYTさん24歳日記

9月10日早朝、ついに私にもきた。いわゆる赤紙、召集状である。この日のあることを、早くから期しているものにとって、特別な感激もなく、悲惨な覚悟とてもわかない」

9月30日、上海に上陸するや、落雷のごとき砲弾の炸裂する轟音に、まず肝を冷やされる。重い背嚢を負い、汗と埃にまみれながら行軍する。水筒の水は、瞬く間に飲み干して、のどは渇き口中は粘る。左側のクリーク内いたるところに、腐乱した敵兵がかんでいて、悪臭が鼻をつく。クリークの水は飲んではいけないとの再三の命令、かまわず飲もうと思うが、死骸の浮いているのを見ると、やはり手が出ない。」

10月9日、あまりのことに驚き、茫然自失、冷水を浴びたるような寒気を覚え、藪は重症危篤、川合は頭部を貫通され、どんぶりとひっくり返る。鼻や耳から鮮血がほとばしり、脳みそもはみ出て即死である。ああ、なんと悲惨なことであろうか。目前に、数10名が亡くなり、あるいは傷ついて倒れているが、収容するすべがなく、ただ悔し涙に咽ぶのみである。」

10月14日、朝早く裏のクリークに飯盒炊さんに行く。クリークはどんより濁って青みがかった汚水であり、そこにだんだん腐乱していく敵兵の屍がいており、それを向こう側に押しやって水を汲み米を研ぐ。向こう側の兵は、その屍を、またこちらへ押しやるといった状態であり、内地では想像もできないこと。」

11月1日午後8時過ぎ、部落に入り、歩哨を立て一夜を明かす。夜半、中国軍正規兵1名を捕まえる。朝、小隊長が軍刀の試し切りをすると、竹やぶの中に連れて行き、白刃一閃ひらめき、敵の首は斬り落ちるかと見ていたのに、手元が狂ったのか、腕がまずいのか、刀は敵兵の頭にあたり血が出ただけで首は跳ばない。慌てた小隊長殿は、刀を振るって滅多にし、やっと殺すことができて、見ていた我々もほっとする。やがて、冷たい雨がしょぼしょぼ振り出し、ぬれた体には寒さがこたえる。」

12月11日、地下室に、8名の敵兵が武装した姿で集まっている。我々を見、銃剣を向けられるや、何ら抵抗せず両手を上げて降伏する。 調べてみると、この兵たちは、田中分隊長を狙撃したやつらとわかる。相談の結果、直ちに殺すことに決め、田中分隊長ほかの墓標の前に連れて行き、死刑執行する。気ちよい。夕食のとき、みんなに話した。俺は元来、きわめて内気な恥ずかしがり屋で、小心者だ。子どもの頃、かえるや蛇1匹殺すことはしなかった。それが、誠に平気にできるし、これで亡き戦友も浮かばれると思うと、後味が悪いどころかかえって気持ちがよく、飯もおいしくいただけるんだから、戦争とは、どんなものをも悪魔にしてしまうんだなあ。」


5月20日午前8時頃、わずか3時間の睡眠で出発、山を越えて東方に向かう。途中、部落に火を放ち、敵の拠点となるのを防ぐ。さらに中隊長命により、農村といえども、女も子どもも片っ端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に、50人、60人。かわいい娘、な子ども。泣き叫び手を合わせる。こんな無残なやり方は、生まれて初めてだ。ああ、戦争はいやだ。」
昭和13年5月20日、徐州郊外


一人の普通の若者が、愛国、天皇絶対という凶悪な犯罪カルト教義を叩き込まれ惨烈な戦場の中で、平然と女子供を殺す殺人兵士に変えられていく姿が浮かび上がる。


2001-8-18朝刊
アメリカに続いて韓国も戦争犯罪人の入国を当然永久に禁止)


に葉書1枚で駆り立てられ
侵略強盗殺人犯罪に利用され尽くした日本皇軍兵士の現在

戦争犯罪に手を染めた士たちは60年を経たいま2001年、
侵略強盗人の犯罪人として個人で責任を負わされているのである。
いつの時代であろうと、いかなる戦場であろうと、命令であろうと、任務であろうと、いかなる勲章を授けられようと、何処にられようと、
人を殺した兵士は
人殺しの犯罪者であることから逃れることは出来ない。

言われるままに引き鉄を引いた情けない侵略殺人兵士が大方を占めたあの時代に、弾圧に抗し反戦・略反対の戦いを貫いた雄雄しく聡明な若者たちがこの日本にも確かに存在したのだ。