歴史  
     
 

赤間関硯由来              硯司 堀尾 卓司 謹曰

はっきりとした創業年代はわかりませんが、
大森家譜に応永二年(一三九五年)硯ヲ彫家業トスとあります。当時の製硯業の常態はわかりませんが下関は文物の渡来等要衝にあたり、それより古いことが推測されます。

石材は最初市内(古名紅谷)より採取されましたが、二百余年前より現在の厚狭郡地方で採石されています。石脈は市内いたる処に散見され、現市庁の建つ岩盤、鉄道、国道両トンネルにもあります。平家物語に名高い安徳天皇御陵の背後の丘陵は、全山この石材が露出しています。山陽線小郡から山陰線荻にかけて線を引けば、その以西、県内いたるところに石脈を見ることが出来ます。

この硯は赤褐色で、赤色頁岩です。酸化鉄、泥土、灰より成り、紫金石、紫雲石、紫青石、紫石の五色があります。紫雲石が普通最も多く使用されています。この石材の中に青色のものが有ります。青材は偶然に出てくるので、昔から喜ばれたものです。これが紫青石です。硯石の中に石眼(青く目の形をしたもの)のあるものを紫玉石と云います。紫石は蝋分があり質もやわらかく、石層の上部にあるものです。本盤というのは紫雲石の層のことです。上層から三段目にあたります。黒線、青線有り、石質に変わりありません。

伝説によりますと、この海峡の岸辺に大きな赤い岩があり、それを或人がかぎ取って硯を作ると、とてもよい硯が出来たのです。それから盛んに作られるようになったといわれています。この石は風化に強く、ねばりがあり、彫刻に向きましたので、先々代名工が出て独自の作風をほこって来ました。

 
     
 
 
   
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