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1932年(昭和7年)2月16日日蓮の誕生日
奉天(現・瀋陽)で満州建国会議が開かれた
「関東軍南無妙法蓮華経司令部」での記念撮影
中央でふんぞり返ってるのが我が司令官の本庄繁である。
ソ連軍が攻めてきた有事の時
女や子供をほっぽり出して真っ先に
家族を連れて自分たちだけが逃げたあの破廉恥関東軍である。
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「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みなともに仏道を成ぜんことを」 法華経化城喩品
1932年(昭和7年)2月16日、奉天(現・瀋陽)で傀儡たちの「満州建国会議」なるものが開かれた。出席者は張景恵、馬占山、蔵式毅、煕洽、そして本庄繁関東軍司令官、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、片倉衷大尉などである。その会議場には日本侵略傀儡の形跡を消すために日の丸も五色旗も飾られていなかった。
しかしその何もない会議場に只ひとつ、異様な垂れ幕がぶら下がっていたのである。
垂れ幕には肉太な達筆で「南無妙法蓮華経」と書かれていた。
石原莞爾の、関東軍司令部の、他人の土地に入り込んでイカれた帝国をでっち上げるコソ泥たちの正体であった。
左手に国家神道という恥ずべき利権道具を、右手に南無妙法蓮華経・日蓮主義の単細胞的妄想を抱えて、幼稚な男たちが際限のない暴力を行使して行ったのである。
関東軍オカルト参謀・石原莞爾は熱心な法華経の信者だった。
奇天烈なカルト理論を妄想の中で捏ねくり廻して、未熟で野蛮な陰謀に突っ走り満州帝国の悲劇と喜劇を演出した。
オウム帝国の幹部と満州帝国の石原莞爾は、その痴呆的な妄想において小さな違いさえなかったのだ。
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法華経、第4の譬えの妄想にイカれて行く石原莞爾
法華経にある7つの譬えの内、第4にあたるのが化城の譬えである。
険難悪道のはるかに遠い彼方に宝処あって、多くの者がそこを目指すのであった。しかしながら、あまりにも険しく長い旅であり、大勢の者達は疲れ遂に気力を失い、それ以上進むことを諦め還らんとするのであった。これを憐れむ、聡明で智慧あり、険悪悪道の地の利に通達する一人の導師あり。神通力を以て、今暫く先に城を化作して云わく「汝等怖れることなかれ、この先に城あり。疲れを癒すべし」と。人々は城に入って喜び、疲れを癒し安穏の想いを生ず。人々の疲労を回復した様子を見て、導師は化城を滅して云わく「さぁ、行かん。宝処は近きに在り」と。如来もかくの如し。諸々の生死・煩悩の険しき道を、汝等がための導師となる者である。
日本皇軍と天皇教と日蓮主義、
石原莞爾
日本皇軍という典型的な単細胞引き篭もりのお宝である。
自ら満州帝国の「導師」を演じようとしたのである。
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1932年(昭和7年)1月
錦州に乗り込んだカルト信者石原莞爾参謀
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妙法蓮華経・化城喩品第七
険難悪道。曠絶無人。怖畏之処。若有多衆。欲過此道。至珍宝処。有一導師。聡慧明達。善知険道。通塞之相。将導衆人。欲過此難。所将人衆。中路懈怠。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍宝。而欲退還。作是念已。以方便力。於険道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至宝所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲倦。即滅化城。語衆人言。汝等去来。宝所在近。向者大城。我所化作。為止息耳。諸比丘。如来亦復如是。今為汝等。作大導師。知諸生死。
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北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次、安藤輝三、石原莞爾、井上日召、
昭和という狂った時代の初めに登場するこの男たちはその行動といい、その言動といい、その考えといい、滅裂な思いつきと子供じみた妄想の、およそ思想などと呼ぶには程遠い代物を撒き散らした、中身の無い幼稚極まりない人間だった。
彼らはみな熱心な日蓮主義者であった。
宗教や国家にイカれるのが幼稚なのではない。
幼稚な人間たちが、宗教や国家などという安っぽいカラクリに引っ掛かるのである。
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日蓮主義の創唱者である田中智學が、天皇と国家神道を摂取して、日蓮主義的国体論を形成した。さらには満州建国に深くかかわった石原莞爾が日蓮主義的国体論を変容させていった。「天皇の存在も法華経により正当化されていった」のである。神道と日蓮主義を幼児の粘土遊びのようにこね回して、奇妙奇天烈な国家をでっち上げて行ったのだ。神は、信者と領土という究極の利権を拡大しようとするヘタレどもの手先として常に万能の力を発揮するのである。
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石原莞爾は無能無責任を絵に描いたような統制派の東条英機(陸相、後に首相)と方針が対立し、予備役に編入され事実上失脚させられ軍の表舞台から追われた。東条程度の男に追放される石原の無能を証明する経歴ではある。「満州事変の犯人」として知られる男だが、彼の持っていた構想というのが子供じみていた。先ず、「東亜諸国民・民族の水平連合によって、欧米列強の覇権に対決する」と言う「東亜連盟」構想を唱えた。そして、その一環として柳条湖陰謀事件で満州事変(1931年)を起こし、「五族協和の王道楽土」などというあの時代でさえ世界から子供っぽい辻褄合わせを嘲笑された「満州国」をでっちあげた(1932年)。つまり石原莞爾は唱える妄想とやってることが全く違う、今の自民党利権族議員と酷似していたのだ。だから日支和平・東亜諸民族を糾合して「東亜連盟」を成立させるなどという石原の口から出任せが信用される筈もなかった。おまけに和睦の相手が蒋介石しか念頭になかったというのだから歴史も情勢も把握できていないかったのである。こんな新興宗教の酔っ払い信者のような男のために日中の多くの若者の命が失われたのである。
『満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究』昭和5年(1930)関東軍参謀部
『石原莞爾選集』
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1934年(昭和9年)9月18日
石原莞爾参謀が立案し河本中尉と小杉軍曹が
柳条湖の鉄道を爆破した地点
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「、、、しかし最終戦争は実に人類歴史の最大関節であり、このとき、世界に超常識的大変化が起るのである。今日までの戦争は主として地上、水上の戦いであった。障害の多い地上戦争の発達が急速に行かないことは常識で考えられるが、それが空中に飛躍するときは、真に驚天動地の大変化を生ずるであろう。空中への飛躍は人類数千年のあこがれであった。釈尊が法華経で本門の中心問題、即ち超常識の大法門を説こうとしたとき、インド霊鷲山(りょうじゅせん)上の説教場を空中に移したのは、真に驚嘆すべき着想ではないか。通達無碍の空中への飛羅は、地上にあくせくする人々の想像に絶するものがある。地上戦争の常識では、この次の戦争の大変化は容易に判断し難い。、、、」
「最終戦争論・戦争史大観」石原莞爾
トホホである。
最終戦争論、だって、、、、、論じゃねえだろうが莞ちゃん、、。
出来の悪い子供用アニメの脚本かインチキ宗教のパンフレットに書かれているようなシロモノである。こんなトホホオヤジが日本皇軍の中枢にいたのである。こんなもんに多くの若者たちが転がされたのである。
『世界最終戦論』増訂版・新正堂・昭和17年(1942)
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▼大昔からコケにされ続けていると
最後は
死体になるのが1番キモチ良くなっちゃう。
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■昭和6年9月19日奉天占拠
東洋拓殖奉天支店に関東軍司令部を移転
支那事変の初期、武藤章が石原莞爾に言った
「あなたが満州でしたことと同じことをを行っているだけです」
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田中隆吉
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)
満州事変発生以後特に三国同盟前後より観念右翼の跋扈ははなはだしかった。
彼らの多くは口に天下国家を論ずるも、概ね時の権勢に阿付迎合してその衣食の資を稼
ぐを常とする。故に一定の職を有せずして、自ら浪人と称する彼らの私生活は意外に豪奢
である。そのあるものは常に羽二重の五つ紋の羽織を纏って白昼堂々と大道を闊歩する。
口を開けば国家の安危を語り、意に充たざるものあるときは脅喝と殺人をもあえて辞せぬ」
「日中戦争特に三国同盟の成立以後においては、彼らの多くはわが国の政治経済の実権を
掌握せる軍部に近づき、これに阿付迎合した。彼らの衣食と運動の資金は概ね軍あるいは
これと連絡ある実業家の手によりて供給せられた」
「大東亜戦争の勃発に際し、軍部の内意を受けて、無知にして善良なる国民を煽動せるも
のは主として彼らであった。中にはドイツ大使館より莫大なる黄金を運動資金として提供
せられたるものもあると伝えられる」
「内地における観念右翼に比し、さらに悪質なるものは大陸に進出せる右翼である。彼ら
が一部の政治軍人と結託して中国民衆を搾取し、その私服を肥やせることは天下周知の事
実である。中には巨万の富みを蓄えたるものすらあるとの噂もある。口を開けば天下国家
を論じ、定まれる職なくして巨万を蓄え得るとすれば、かって何人かが「乞食と右翼商売 は三日すれば止められぬ」と皮肉った言葉は、けだし適評と言わねばならぬ」
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2002年の現在も
軍隊という「公務員暴力装置」は
利権の拡大に奔走している。
「軍隊は国民など守らない。」(作家・目取真俊)
予算分捕り詐偽を手伝ってくれと
メモまで作ってアメリカ軍に頼みに行った。
2002・5・6
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■海幕、米軍に裏工作 イージス艦派遣、対日要請促す
4月に幹部「対イラク戦の前に」
防衛庁海上幕僚監部(海幕)の幹部が4月10日、在日米海軍のチャプリン司令官を横須賀基地に訪ね、海上自衛隊のイージス艦やP3C哨戒機のインド洋派遣を米側から要請するよう働きかけていたことがわかった。米政府がその後日本側に持ちかけた派遣要請の裏側に、海幕幹部の工作が存在した形になる。米軍支援をめぐる制服組の独走ともいえる事態で、文民統制(シビリアンコントロール)の危うい現状が浮き彫りになった。連休明けの有事法制関連法案の国会審議にも影響を与えそうだ。
日米双方の安保関係筋によると、海幕幹部は4月10日の在日米海軍司令官との面談で、テロ対策特措法に基づく協力支援活動を5月19日の期限切れ後も延長する方針を前提に、米側から次の3項目を日本側に要請するよう、準備したメモ書きにそって促した。
「海自イージス駆逐艦は警戒監視能力に優れ、米海軍との情報交換分野で相互運用性(インターオペラビリティー)が強化できるので派遣を期待する」
「捜索救難の分野で高度の水上監視能力を持つ海自P3C哨戒機による支援を期待する。もしディエゴガルシア島近辺に来てもらえれば大いに評価する」
「海自補給艦2隻のインド洋展開をできる限り長く維持してもらえれば非常に喜ばしい」
米軍事筋はまた、この海幕幹部が働きかけの理由として「仮に米軍が対イラク開戦に踏み切ってしまってからでは、イージス艦やP3Cの派遣は難しくなる。何もないうちに出しておけば、開戦になっても問題にならないだろう」と説明したことも明らかにした。
これに対しチャプリン司令官は「(権限を越えるので上級の)太平洋艦隊司令官に伝える」とだけ答えたという。
イージス艦とP3Cをめぐっては、4月16日にワシントンで開かれた審議官級の日米安保事務レベル協議(ミニSSC)開始に先立つ折衝で米側から非公式な派遣打診があった。同29日にはワシントンを訪ねた与党3党の幹事長に対し、ウォルフォビッツ国防副長官が派遣要請した。いずれの場合も日本側は否定的に反応している。
在日米海軍司令部報道部は、司令官と海幕幹部との面談内容に関する朝日新聞の取材に対し、直接には答えず、「反テロ戦争に向け日本政府が提供してきた死活的な支援について米海軍は心から評価している。日本が行う貢献は日本政府が決めることだ」との最近の司令官発言を紹介した。
◆積極的には言ってない 香田洋二海上幕僚監部防衛部長の話
イージス艦は標的情報を取ってコンピューターで処理する精度では普通の護衛艦とそれほど変わらない。しかし、多くの標的情報を同時処理し、情報図として書き出す能力が抜きんでている。作戦を楽にし部隊防護能力を強くするから、問われれば出させてもらいたいと答えている。しかし、積極的に、出させてもらわないと困ると言ったことはない。
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2002・5月の読売記事の一部。
ニクソン大統領(アメリカ政府)のテープ500時間分の中に
軍事同盟の本音があった。
「、、日米安保体制は日本に対するにらみを利かせるものである。」
つまり
日本とアメリカの軍事屋は日米安保体制という利権のために
日本国民を永久に封じ込め資金を吸い上げる同盟を堅持する、ということだ。
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戦後、多くの皇軍幹部と同じように石原莞爾は豹変する。
平和と民主主義の巨大な潮流を嗅ぎ取った結果であった。
中国何応欽将軍に宛てた石原莞爾の詫び状
拝啓 日本降伏後稲葉氏に御托しの芳書拝読深く感激致し候 敗戦日本の現状は天刑により日に日に惨状加へ居り候も 我等の同志は此機会に全て正しき日本を建設し 東亜の再興に寄興することのみが 貴国始め東亜諸国に対し犯せる大罪の万分の一を償ふの道と存じ候 将来一層の御指導を賜り度御願申上候 敬具
昭和二十二年二月二十五日 石原莞爾
何将軍閣下 執事
蒋介石への詫び状
拝啓 未だ拝顔の栄を得ず、而も今次世界動乱の起因と相成候満州事変の重大責任者の身を以て一書拝呈し候非礼、平にご海容賜わり度く候。
事変を契機とし、日本の貴国に対する態度を根本的に改め、両国の公正なる提携を実現致し度く努力し、日華事変勃発後は国民より相当の支持を得るに至りしも、微力遂に破局を防止し能はざりし事、誠に慙愧の極に御座候。敗戦後は同志一同貴国を始め東亜諸民族に対し、日本の犯せる大罪を懺悔しつつ、真に正しき平和日本の建設に励め度、具体的活動を開始し、国民の大なる共鳴を獲得せしも、日本占領軍当局の理解を得る能はずして今日に及び候。
然し我等は至誠一貫目的の達成に邁進すべき所存に御座候。降伏後、主席閣下の日本に対し示されたる高き道義に徹せる寛容無比の御態度は八千万国民の感激措く能はざるところに御座候。
将来共一層の御指導御鞭撻を賜り度伏して奉悃致候。 敬白
昭和二十二年二月二十五日
石原莞爾
蒋介石主席閣下 執事
昭和23年11月24日石原莞爾は山形県飽海郡高瀬村の自宅で東亜連盟協会代表等を相手に対談した。
16m映写機で写したフィルムには「新憲法」の前文、第9条の「戦争抛棄」「非武装中立」をそのまま読み上げたような発言がある。
石原は言う「…日本は蹂躙されてもかまわないから、われわれは絶対、戦争放棄に徹して生きて行くべきです。ちょうど聖日蓮が竜の口に向かって行くあの態度、キリストが十字架を負って刑場に行く時の、その態度を、われわれは国家としてとらなければならない…」。
昭和23年、1948年という年は未だ日本に「新憲法」の前文、第9条の「戦争抛棄」「非武装中立」の機運が充満していた。日蓮やキリストを持ち出すところが相変わらずのDOキュンではあった。
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(参照)
そもそも日蓮というオッサンは何であったのか?
彼が佐渡に流されたのは1271年(文永8年)である。自分は日本第一の法華経行者であると自分で言っていた男である。蒙古退治の大将である、国難調伏を請け負うというのである。しかし鎌倉幕府は彼の「勘文」を鼻であしらい、念仏宗などを取り締まれという訴えも無視した。癇癪を起こした日蓮は蒙古第二次来襲・弘安ノ役には日本亡国であるなどと何の根拠も無い脅しを喚いていたのである。「彼国より押し寄せれば、蛇の口の蝦蟇、包丁師の俎の上に乗った鯉となる」(上野殿御返事)、「或いは射殺、斬殺、或いは生け捕り、或いは地方へ虜送され、数千万の人々が縄に繋がれて責め苦を受ける」(智妙房御返事)などとこれでもかこれでもかと煽りまくったのである。ところがご存知の通り第二次襲来は蒙古軍の大敗であった。日蓮の予言なるものはすべてハズレであった。いま、公明党も有事だ、立法だ、などと自民党と一緒になって煽っているが、この頃からのクセであろうか。
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ついでだが
いい加減だったのは靖国神道や日蓮カルトだけではなかった。
カトリック・バチカンも軍部や右翼団体の脅迫にあっという間に屈して原則は曲げるわ屁理屈を付けて満州国を承認するわ、リットン調査団にまで皇軍とグルになって文句つけた。侵略された人間のことなどまるで思いもつかない神さんだったのだ。
真相は不明だが靖国神社参拝拒否事件なるものは昭和7年5月5日に上智大学で起ったとされる、類似の「ミッション・スクール排斥事件」は枚挙に暇がなかった。当日配属将校の北原一視大佐が学生を引率して靖国神社参拝と遊就館見学を行なつた際、カトリック信者の学生二名が参拝をしなかった。護国の英霊に背を向けるとは国辱者と槍玉にあげられかねない行為ですが、案の定、十月一日付け「報知新開」が告発、十月十四日の「読売新聞」には「″軍事教練に背く〃と配属将校引き揚げ決意、上智大他二校に対して軍部憤激、文部省狼狽」と報じた。五か月以上経過した時点で日付の明示もない”事実″がなぜ「事件」となるのかは不可解だが、とにか〈、「在郷軍人会、国粋主義的団体、一部の神官僧侶まで一体となつたキリスト教批判に発展、皇道派の荒木貞夫陸軍大臣は「カトリック、否、仝キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師等はそれぞれの国から派遣されたスパイである」と発言する事態となった。実際、陸軍省は十二月七日に上智大学・暁星中学から配属将校の引き揚げを敢行、昭和八年十二月二十一日に新しい将校が配属されるまで、混迷は続いた、しかし最後はバチカンが禁じられている「偶像崇拝」や「異教の行事に与する。」という大原則を曲げて日本軍部に擦り寄ったのである。
ホントに神さんの承認取ったのかよ、と言いたくなるバチカン教皇庁の満州国承認の書簡である。
「満州帝国外交部大臣閣下
以書翰啓上致候 陳者先般書林教区長ガツペ(A.Gaspas)司教貴部訪問二際シテハ閣下ノ懇切ナル脊遇ヲ蒙り・・・旨同司教ヨリ報告ノ次第有之玄ニ本官ガ其ノ才能手腕ヲ信頼シ在満州国全司教ヲ代表シ天主教伝道二関スル宗務掌理方ヲ任命シタルガツペ司教二示サレタル閣下ノ御厚情二対シ衷心感謝卜満足ノ意ヲ表シ候
・・右申進旁々本官ハ慈ニ閣下ニ向カッテ深甚ノ敬意ヲ表シ候
一九三四年八月二日 於羅馬 教皇庁布教聖省長官
枢機卿 F・ビオンディ」
傀儡政権の謝介石外交部大臣は康徳元(一九三四)年九月一一日付の答翰を送るとともに、同月二八日、沈宮内府大臣、吉澤新京領事、神吉外交部政務司長他、日満要人と共に、ガスペ駐満教皇庁臨時代表他教会関係者をヤマト・ホテルに招宴したのである。
げに、満州とは好き勝手に「神社」や「カトリック」や「法華経」のぬいぐるみを被った、無責任でヘタレな利権屋どもが目の前にぶら下がった他人のニンジンに、殺到したところだったのだ。その泥棒たちの手先となって先頭を突っ走ったのは他ならぬ神さん「たち」だったのである。
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