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国家と軍隊と



1945(S20)-6-20朝日新聞第二面






上の新聞記事は敗戦約2ヶ月前の昭和20年(1945年)6月9日の朝日新聞第二面に掲載されたものである。この年の4月にアメリカ軍は沖縄に上陸、日本各地は大空襲に晒され日に日に国民は黒焦げの死体となって積み上がっていた。

上の方の記事は連合艦隊司令長官豊田副武が神風特攻隊・第二隊、第四隊、月光隊、新高隊、菊水隊の「悠久の大儀に殉じた殊勲」を布告したものだ。布告の日付はいずれも5月の下旬である。そして、真ん中の記事は同じ二面の下段に掲載された松竹京都撮影所製作のマキノ正博の映画『ことぶき座』の28日封切りの宣伝である。

国体という究極の奴隷制護持のために次々に若者たちが有無を言わさず特攻させられていた時、まさにその時、着飾った一群の男女は高田浩吉と高峰三枝子の映画封切りに胸を躍らせていたのだ。同じ日の同じ紙面のこの二つの記事は、いま想像しても眩暈がするような落差である。

子供に爆弾を抱かせて突っ込ませるような狂信的な国家には無差別空襲しかない、、、特攻攻撃の狂気が何十万もの国民丸焦げを結果した。気が狂ったような特攻作戦が、アメリカの気が狂った報復爆撃を誘発したのである。列強と呼ばれた盗人帝国同士の殺戮が殺戮を呼ぶ文字通りのKITEGAI戦であった。

そのような地獄の日々の中で、そのようなKITEGAI戦を横目で見ながら高峰三枝子の姿に胸を躍らせた一群の者たちが日本には確かにいたのである。、手足を吹き飛ばされ、我が子を殺され、硝煙の戦場をのた打ち回る国民、知り得る限りの悲愴な形容詞を羅列した遺書を書かされ、ボロ飛行機に押し込まれ殆ど命中しない体当たりを決行する神風特攻隊の若い兵士たち、その特攻の報復として焼き殺される何十万という本土の家族と市井の人々、その同じ時間、その同じ日本で、映画館で煌びやかな銀幕に興じる国民。これこそが国家というものの正体である。国のために死ぬなどということがいかに甘ったれた卑怯極まりないことかの紛う事無き証左である。


国のために戦うなどということがいかに甘ったれた犯罪であるかということが以下に語られている。語ったのは辻元清美氏ではない。羅南要塞司令官、帝国陸軍少将、関東軍参謀、陸軍省兵務局長田中隆吉氏である。

田中隆吉
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)


満州事変発生以後特に三国同盟前後より観念右翼の跋扈ははなはだしかった。
 彼らの多くは口に天下国家を論ずるも、概ね時の権勢に阿付迎合してその衣食の資を稼 ぐを常とする。故に一定の職を有せずして、自ら浪人と称する彼らの私生活は意外に豪奢 である。そのあるものは常に羽二重の五つ紋の羽織を纏って白昼堂々と大道を闊歩する。
口を開けば国家の安危を語り、意に充たざるものあるときは脅喝と殺人をもあえて辞せぬ」
「日中戦争特に三国同盟の成立以後においては、彼らの多くはわが国の政治経済の実権を 掌握せる軍部に近づき、これに阿付迎合した。彼らの衣食と運動の資金は概ね軍あるいは これと連絡ある実業家の手によりて供給せられた」

大東亜戦争の勃発に際し、軍部の内意を受けて、無知にして善良なる国民を煽動せるも のは主として彼らであった。中にはドイツ大使館より莫大なる黄金を運動資金として提供 せられたるものもあると伝えられる」

「内地における観念右翼に比し、さらに悪質なるものは大陸に進出せる右翼である。彼ら が一部の政治軍人と結託して中国民衆を搾取し、その私服を肥やせることは天下周知の事 実である。中には巨万の富みを蓄えたるものすらあるとの噂もある。口を開けば天下国家 を論じ、定まれる職なくして巨万を蓄え得るとすれば、かって何人かが「乞食と右翼商売 は三日すれば止められぬ」と皮肉った言葉は、けだし適評と言わねばならぬ」

ある高級司令部では政治経済の監督の責任を有する特務班の幹部全員が相語らって、巨額の公金を遊興の費に充てた。ある守備隊長は、富裕にして親日家たる華僑を惨殺して巨額の黄白(=金銀)を奪い、これを土中に陰蔽して他日の用に備えた。ある憲兵隊長は、愛する女に収賄せる多額の金額を与えて料亭を経営せしめ、その利益を貯えた。ある特務機関長は、関係せる女の父親に炭鉱採掘の権利を与えた。ある中隊長は戦地における部下の兵の携行する写真により、その妻が美貌の持主であることを知り、陸大受験のために内地に帰還するや、東京の宿にその兵よりの伝言ありと称してこの妻を誘い寄せ、忌わしき病気さえも感染させた。

 賄賂は公行した虐殺と掠奪と暴行は枚挙にいとまがなかった。私の親友遠藤三郎中将は、漢口より兵務局の私宛に私信を送り来て、「高級将校にしてその心懸けを改めざる限り、戦争は絶対に解決の見込なし」と憤慨した。

内地においても、大東亜戦争の中期以後における軍隊の暴状は、あたかも外地に似たものがあった。暴行もあった。収賄もあった。掠奪もあった。拳銃をもって威嚇し、人民の家屋を強奪したものもあった。ある大隊長は民がひと月五合の酒に舌鼓を打ちつつあるとき、常に四斗樽を備えて鯨飲日も足らなかった。国民が乳幼児と病人のため、牛乳の入手に多額の金を工面しつつあるとき、健康なるある連隊長は、配給所に対し1日五合の牛乳の配給を強制した。国軍の将校を養成すべきある学校の高級将校は、生徒に配給せられたる石鹸数百個をその家庭に運び、これを米麦と交換して一家の生活の資とした

ある兵工廠の経理官は、地方のボスと結托し、軍需品の横流しを行い、巨額の金を私した。熊本では外出した兵が女学生を強姦した事件があった。しかもこれらはわずかにその二、三の例に過ぎぬ

 海軍もまた、概ねこれと同工異曲であった。否、陸軍よりもさらに腐敗していた。呉の工廠では数年にわたって工廠長以下が出入り商人と結托し、多額の収賄を行った事件があった。ある地方では、海軍の兵が婦女子を強姦した。父兄が抗議すると、隊長は昂然として言った。「戦に負けて青目玉の子供を産むよりよいだろう」と。

さらに奇怪千万なるは食糧である。国民が一日二合三勺の主食の配給に、日に日に痩せ衰えつつあるとき、軍隊は戦時給養と称して一日六合の米麦を貪り食った。肉も魚も野菜も国民の配給量の数倍であった。国民が雀の涙ほどの配給に舌を鳴らしつつあるとき、ある師団の移転の際には、携行し得ざる二百石の清酒が残った。大都市の民が、椀の底が早えるような雑炊を主食の代りとして吸い込みつつあるとき、高級官衛に勤務しある軍人及び軍属は、外食券を用いずして二十五銭の弁当にその腹を膨らました
以上
関東軍参謀・羅南要塞司令官として終戦を迎えた田中隆吉氏(1893年生)の回想


昭和20年3月22日硫黄島玉砕
戦死者20,129名


昭和20年8月11日
広島・長崎に原爆が投下された後である。
未だ国体護持なんて言ってる。


2003年、軍需利権のためにマスコミを使って次から次に意図的に平成有事が作り出されて行く。