「女は男のどこを見ているか」は20万部を売り上げ、岩月謙司氏をベストセラー作家に
押し上げた著作である。
刑事告訴される前の時期に執筆したと推定される。
この中に潜む岩月謙司氏の肉声を拾ってみよう。
岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 114頁 (2002年9月20日初版発行)
もし、たくさんの問題を解決してきた人なら、40歳を過ぎるころから、自分に自信が
持てるようになります。仕事に誇りや自信を持っていることは当然ですが、自分自身
に対して自信が持てるようになるのです。この自信が女性を安心させる原動力になるのです。
男性は本来、英雄体験を重ねることで、心が純粋になっていく動物です。
・・・(略)・・・
女性は、純粋な愛で愛されてこそ、大人になるにつれ純粋になっていくのです。
子どもよりも純粋な大人がホンモノの大人なのです。
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この、「たくさんの問題を解決してきた人」とは誰なのだろうか。
佐藤真理愛さん(岩月謙司著「家族のなかの孤独」第一章「私は生きている」の手記の著者)を
カウンセリングしたのが1996年夏であり、当時の岩月謙司氏は41歳である。
この部分は岩月氏の自分語りなのように思えてならない。
岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 187頁 (2002年9月20日初版発行)
精神的指導者は、すぐれていればいるほど
理知的な顔はしていないものです。
どこにでもいるような人の良さそうなオジサンという感じです。
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そして、この部分も岩月氏の容貌を自己評価しているように読める。
これ以降は主語を「岩月氏自身」と解釈して読み進める事とする。
岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 187頁 (2002年9月20日初版発行)
非常識なことをするのが改革ですから、常識に縛られた人がリーダーになったのでは
必ず失敗します。もし、あなたが修行していて、私も嬉しい、あなたもうれしい、という
関係が成り立ったとき、自分のしていることが世間一般の常識から外れていないかどうかは
考えなくていい、と言いたいのです。
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非常識な改革、世間一般の常識から外れた修行、
これら全てを「私も嬉しい、あなたもうれしいという関係が成り立ったなら、考えなくていい」と主張している。
岩月氏が行った世間一般の常識から外れた修行とはいったい何なのだろうか。
「私も嬉しい、あなたもうれしい、という関係が成り立ったとき、」とは何なのだろうか
それは文章の通りに解釈するならば、非常識な改革、世間一般の常識から外れた修行から
もたらされるものなのだろう。
世間一般の常識から外れた修行相手の「あなた」とは誰なのだろうか。
それは岩月氏の配偶者、恋人などを指すのだろうか。それとも・・・。
岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 190頁 (2002年9月20日初版発行)
セックスしたいから女性の呪いをとくのもいいでしょう。
下心のない行為をやめろとはいいません。
純粋に相手の女性に幸せに生きて欲しい、という願いでもって
呪いを解くことをする人間を目指して欲しいのです。
結婚をするしないに関係なく、女性の呪いをとこうとする心、
これが高次元の欲望です。見返りを期待しない愛です。下心のない親切です。
実は、こちらの愛や親切のほうが下心のある愛や親切よりも気持ちいいのです。
愛する側も、愛される側もどちらも悦び百倍です。
男性にとって、こういう「個人の利益を超えた何か」で動くこと、これが夢と
ロマンというものですが、これをすると、悦びがたくさん手に入り、魂を清浄に保つのに
大変有効です。いい男とは、目先の利益で動くのではなく、夢とロマンで動く男性のことです。
でも、欲望を捨てているわけではありません。
うれしい、楽しい、気持ちいい、うまい、ということを追求する人です。
とことん追求するのです。
そうすると、最後に、「私もうれしい、みんなもうれしい」という関係を、自分と人、
自分と組織(会社)、自分と自然、そして自分と人類の間に作れるようになります。
この世は究極の利己の追求が、究極の利他になるようにできているからです。
悦びを追求するのに遠慮はいりません。
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「結婚をするしないに関係なく、女性の呪いをとこうとする心」の記載から、
呪いをとく女性の対象は。岩月氏の配偶者や結婚を前提に交際している女性ではないことが判る。
それは果たして誰なのだろうか。
そして、『「私もうれしい、みんなもうれしい」という関係』の、
「私もうれしい」とは、岩月氏が女性とセックスすることだと推論され、
「みんなもうれしい」とは、岩月氏が複数の女性の呪いをとく事を介して親切や愛を与えることだと推論される。
「究極の利己の追求が、究極の利他になる」の文も同様のことを繰り返しているのだろう。
では、この複数の女性とはいったい誰なのだろうか・・・。
岩月氏は被害者の女性に「下半身に呪いが掛けられている」と言ったそうだ。(ZAKZAK 3月10日 下の記事参照)
それは、当該記載のように「セックスしたい」という欲求から来たものなのだろうか。
「下半身にのろい…」お触り香川大教授が否認
心の悩みの相談に訪れた女性の体をわいせつ目的で触ったとして、
準強制わいせつ罪に問われた香川大教育学部教授、岩月謙司被告(50)の初公判が
11日、高松地裁(増田耕児裁判長)であった。
岩月被告は「準強制わいせつといわれる行為をしたことはない」と述べ、起訴事実を否認した。
起訴状によると、岩月被告は平成14年4月末、高松市の自宅を訪れた二十代女性に
「下半身にのろいが掛けられている」などと説明。心理療法と信じ込ませ、
浴室と寝室で女性の胸や下腹部を触った。
高松地検はいったん嫌疑不十分で不起訴処分にしたが、高松検察審査会が不起訴不当と議決。
地検は再捜査の末、昨年12月に逮捕、起訴した。
岩月被告は「思い残し症候群」など独自の男女観や親子論に基づく著作が多数ある。
相談者に幼児期を追体験させるカウンセリング行為「育て直し」を10年以上行ってきたとされる。
ZAKZAK 2005/03/11
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岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 220頁 (2002年9月20日初版発行)
人は神様ではないのですから、完璧である必要はありません。
欲求を捨てる必要もありません。美人でナイスバディの女を抱いてみたい。
そういう欲求は、男性として自然な欲求です。その欲求を捨てることが人間として
立派なことではありません。男性が女性にやさしくしたいという願望の裏には
女性とセックスしたいという願望が横たわっています。
そのため、いい女とセックスしたいという願望をなくせ、ということになってしまったら、
男性は女性にやさしくなくなります。セクハラはこの世から消えますが、
女性は社会のすべての男性たちから親切にされなくなってしまいます。
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岩月謙司氏は、いい女とセックスしたい欲望とは、女性に優しくする事だと定義し、
女性に親切にする手段として、セクハラがこの世に存在するのは当然のことだと主張している。
これを反対解釈するならば、女性は男性にやさしくされるために、男性がいい女とセックスしたいという願望をなくせと
主張すべきでないと言っているのだと解される。
岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 221頁 (2002年9月20日初版発行)
目の前にいるナイスバディの女性をだましてセックスし、そのことで得られる快感や満足感と
女性全般の、いや、人類の幸せを願ってした行動によって得られる快感や満足感と比べて
後者の方が大きいことがわかったら、人はおのずと快感の大きい生き方を実行するようになるからです。
高次元の欲求の方が、悦びも感動も大きいように、私たちの心はできています。
聖なる方向へ人が進むようにできているのです。やってみればわかります。
自分が体験してわかったことを推し進めていけば、必ず最後にはいい人生になります。
悦びの中でももっとも大きな事をくりかえし実行すればいいのです。
ただそれだけです。それがおのれの信じた道を歩むということです。
高次元の願望で動いている人ほど、自分は当たり前のことをやっていると思っています。
自然体で飄々とやっています、淡々としかし情熱を込めてやり続けるのです。
私たちの心は悦びが大きいことをするようにできているからです。自分らしくいきるようにすればいいだけです。
自分らしく生きることがこの世でもっとも美しいのですから。
第四章にも書きましたが、自分らしく生きる、ということは、好き勝手にやればいい、ということではありません。
あくまでも、「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係を指標にしながら、
とことん自分の快を追求するのです。
究極の利己が究極の利他になる瞬間が必ず来ます。
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「女性全般、または人類の幸せを願ってした行動」とは、セックスのことであろう。
何故なら、「女性を騙してセックス」が並行して記載されているからである。
「女性をだましてセックスし、そのことで得られる快感」の部分により、
「快」とはセックスで得られる快感の意味で使われている。
したがて、「自分の快を追求する」の文章は、
岩月氏がセックスによって得られる快感を追求することを指すと解釈される。
そして、結びの文章にある究極の利己とは、岩月氏がセックスによって得られる快感を追求した結果を意味し、
究極の利他とは、女性の呪いを解くことを意味し、
瞬間とは、岩月氏の快感が極大化した瞬間(性的絶頂?)を意味すると推論される。
この「女性全般の、いや、人類の幸せを願ってした行動」に基づく、
岩月氏の「セックス」の相手とはいったい誰なのだろうか・・・。