岩月氏は、1999年9月発行「娘の結婚運は父親で決まる」 において、「父親のセクハラ」を批判している。
娘を1回でも「オスの目」で見ることが父親のセクハラとなるのだそうだ。
岩月謙司著 「娘の結婚運は父親で決まる」 76頁 (1999年9月30日発行)
とりあえず私は、娘の嫌悪の原因を母親に尋ねてみた。
母親 「そういえば、風呂場で着替えている時、お父さんに裸を見られたと
言って騒いでいる時がありました。」
岩月 「それかもしれません」
母親 「でも、そんなにおこってはいませんでしたよ。私も気にしなくていいと言ったんです。
だって偶然でしょ、そんなの」
岩月 「いいえ、偶然ではないかもしれません。」
母親 「えっ、お父さんが実の娘の裸を見たがるの? 私は父にそんなことをされたことは
一度もないですよ。だから、気にするほうがヘンだと、逆に娘を叱ってしまいました。」
岩月 「二重に傷ついたかもしれませんね。たとえばお父さんが風呂場に行ったのが
偶然でも、どういう目で見たかが重要なんです」
母親 「どういう目だと傷つくんですか」
岩月 「オスのような目です。つまり、娘ではなく、若い女を見るような目つきで
見られると、娘はひどくショックを受けるものなのです。」
母親 「実の親子なのにそんな目で見る父親がいるんですか?」
岩月 「娘さんにそれとなく聞いてみてはいかがですか。妻に軽蔑されているお父さんは、
娘を若いメスを見るような目でみてしまうことがよくあんるんです。オスになってしまうことが
たまにあるんです。娘からすると、たまにでも許せないんです。いえ、一回でも許せません。」
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2000年1月発行の、「娘がいやがる間違いだらけの父親の愛」には、
岩月氏が124人の若い女性(香川大学の1年生)に
アンケート調査をしたと「自称する」内容が記載されている。
これは妥当な内容であろう。
岩月謙司著 「娘がいやがる間違いだらけの父親の愛」 17〜18頁 (2000年1月発行)
124人中たったの2人が「お父さんにイヤらしく肩を触られた」
「オスのような目で見られた」とアンケートに記載し、
個別の面談調査では「軽微なセクハラ」が浮かび上がり、
「このセクハラこそ、父親を嫌う最大の理由であったのだ
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それが、2002年6月発行の「くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座」ではこう変わっている。
この本は、ちょうど準強制わいせつ事件が発生した直後に発行された本である。
岩月謙司著 「くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座」 141頁 2002年6月1日発行
岩月 そうです、幼稚園のころ、パンツ下げられて
お父さんに射精されている子なんて、いまどきは決して珍しくないですよ。
・・・略・・・
岩月 セクハラされて性的に感じてしまう女の子もいるんですけど、
この場合、恐怖と性が結びついてしまいます。
こうなると恐怖や不安を感じるセックスをしないと感じなくなってしまいます。
229-230頁
ズバリ言いましょう。あなたが幼児期(2〜4歳)に、お父さんから、性のオモチャに
された可能性が高いのです。お父さんはほんのできごころです。遊びのつもりです。
ですから、お父さんには罪の意識はありません。セクハラをした記憶も曖昧です。
具体的には、おっぱいをさわる、性器をさわるなどです。
女性は幼児期でもおっぱいをさわると感じるものなのです。
そのために、セクハラされた娘は、性的に感じてしまった
自分を恥じ、そして自分を責めてしまいがちです。
共犯者だと思ってしまうのです。お父さんからヘンなことをされた被害者なのに、
感じてしまった自分が悪い子だと、お父さんをかばってしまうのです。
性器をさわれれた場合も、もちろん感じてしまいます。
233頁
ある女性は、自己分析をノートに書いているうちに、小さな頃、
持病の喘息で入院していた時に、入院仲間の最年長の少年に寝ているときに
いたずらされたことなどを思い出しました。
またある女性の場合は、父親から風呂場でいたずらされたことを思い出しました。
こういうことをする父親は、そのほとんどがマザコンパパです。
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なぜ、こんな短期間に過激な「父親のセクハラ」のデータが収集できたのだろうか。
233頁を見ると、クライアントに自己分析ノートを書かせているときに「思い出した」そうだが、
それが本当のことであるとどうやって検証したのだろうか。「偽記憶症候群」の恐れはないのだろうか。
「偽記憶症候群」とは、実際には起きていない幼児虐待の記憶があると強く信じている状態を言う。
偽記憶は、セラピーの過程、特に、間違った誘導尋問の使用やセラピストによる提案などによって、
クライアントの心に「植え付ける」事が可能である。
具体的に言うと、セラピーの中で間違った情報を繰り返し聞いていたり、
時には催眠療法のような記憶回復の為の特別な療法を使いながら、
何かを強く提案されたりした場合に、人の記憶はゆがめられてしまうのだ。
EnnsとMcNeilly(1995)が記憶についての莫大な研究を振り返った結果、
セラピーの中で以下の4つの状況下に置かれると、人は暗示にかかりやすくなるのだと結論を出した。
- (1) 間違った情報を、セラピストや精神科医のような権威のある人から与えられ、繰り返し聞かされた場合
- (2) 間違った情報が、理論的また経験的に、ありそうだと思える内容のものだった場合
- (3) 過去に起きた事について思い出そうとしている時と、その事柄が起きたであろうと推測される時の間に、大きな時間差がある場合
- (4) セラピストが、自由想起などの間接的な質問より、はい、いいえで答えられるような直接的な質問を使用した場合
20代の女性に、2〜4歳の頃を想起させるという、極めて大きな時間差がある場合で、
かつ国立大学教授という権威ある人から与えられた情報ならば、偽記憶症候群が起き易くなるであろう。
参照:
偽記憶症候群をめぐる論争とセラピストの役割
同様の父親のセクハラは、「なぜ、「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか」「娘は男親のどこを見ているか」にも記載されている。
岩月謙司著 「なぜ、「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか」 125頁 (2003年4月25日発行)
セクハラといっても、風呂場をのぞくとか着替えをのぞく、
若いオンナを見るようなイヤらしい目でみるという軽いものから、
乳房や女性器をさわる、という重度のものまで程度はさまざまですが、
大事なことは、何をされたかではなく、娘がどれだけショックを受けたかです。
実父からイヤらしい目で見られただけでも、人によっては犯されたと同じくらいのショックを
受けます。その結果、強烈な男性不信と強烈な男性恐怖が発生します。幼い女の子にとて、実父は
男性の代表だからです。
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岩月謙司著 「娘は男親のどこを見ているか」 152頁 (2003年5月20日発行)
父親の影響は、娘のセックスにまで及びます。恐ろしいことです。
セックスの最中に夫をけっ飛ばした人もいます。自分の子宮が気持ち悪くて、
内臓の全部を体外に出したくなったという女性もいます。
これは必ずしも、悪い男と悪いセックスをしているからではありません。
二歳から四歳くらいまでの間に、父親から風呂場や布団の中で性的ないたずらをされるとこういう
現象が発生することがあるのです。
父親からのセクハラは意外に多いので、セックスのトラブルが発生した時には、
検討してみるべきでしょう。
「まさか!ウチのお父さんに限ってそんなことをしないと思う」と、多くの女性は否定しますが、
そのまさかが現実には多いのです。幼い頃なので記憶にないだけです。
さきほど申し上げましたが、記憶になくても恐怖の感情や怒りの感情は残っているのです。
そのため、セクハラされた時と同じような状況、つまり、夫とセックスをすると、
過去、父親からセクハラされた時の恐怖と怒りがよみがえってくるのです。
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WebMasterは、極めて単純な疑問を抱いた。
クライアントの記憶にない事象でありながら、
どうやって岩月氏はその事象が「あった」と断定できたのだろうか。
父親にインタビューして得た等などの記載は全くない。
「ムリして頑張って何になる」2004年4月10日初版発行では、「私が育て直しをやめた理由」の章に
実父による娘のセクハラの章が掲載されている。
なぜ、育て直しと実父によるセクハラが関係あるのだろうか。
岩月謙司著「ムリして頑張って何になる」 214頁 (2004年4月10日初版発行)
詳細は割愛しますが、実父による娘のセクハラも、年々激しさを増しています。
・・・略・・・
実父のセクハラは、娘が二歳とか三歳のときに始まります。
この年齢なら記憶に残らないからです。
セクハラの現場は、家族の目の届かない風呂場かふとんの中です。
ここで、アダルトビデオ並に過激なことをしているのです。
・・・略・・・
育て直しの最中に「私が死んだら、悲しい?」という質問が多いですが、
その裏にはこうしたセクハラとうおぞましい実態があるのです。
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岩月氏は「詳細は割愛」としてソースを伏せているが、どのようにしてこの情報を得たのだろうか。
クライアントからインタビューしたのがソースだとしたら、
父親へのインタビューを並行して実施し、裏をとったのだろうか。
岩月氏自身も父親による娘へのセクハラ行為は「おぞましい」と批判的である。
逮捕直前の 「結婚力」2004年9月25日初版発行では、更に内容は過激かつ具体的になる。
岩月謙司著 「結婚力」 165頁 (2004年9月25日初版発行)
父親による娘に対するセクハラは、年々増えているように思います。
セクハラする場所は、風呂場とふとんの中が圧倒的に多く、そこで、
乳首をいじられたり、性器をいじられたりします。
また、父親の性器をさわらされたり、なめさせられたりと、
さながらアダルトビデオのようです。
167頁
幼児期のセクハラには大きく分けて2種類あります、
単に、娘の体をおもちゃ代わりしてもて遊んだ(*ママ)場合と、
娘が性的に感じるまでさわりまくった場合です。
(* 注:正しくは「弄んだ」)
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これらの「過激な父親のセクハラ」のデータやインタビューが、
わずか数年で採取できるというのは俄かには信じがたい。
岩月謙司氏は、どうやってこのデータを得たのだろうか。
そして、「結婚力」のこの記載は、本件の被害者が受けた性虐待とほぼ完全に同一である。
よって岩月氏は「育て直し」における性虐待を
「実父による娘のセクハラ」として著書に記載していたと解される。
12月25日毎日新聞・朝刊より
相談に訪れた女性にわいせつ行為をしたとして、香川大教育学部教授、
岩月謙司容疑者(49)=高松市昭和町1=が逮捕された事件で、
高松地検は24日、岩月容疑者を準強制わいせつ罪で起訴した。
起訴状によると、岩月被告は02年4月26日午後1時20分ごろ、
神経症的な症状に悩む20歳代の女性に対して自宅に来るよう電子メールを送信。
同27日夜から28日午後まで、自宅で岩月被告に従うのが治療に必要であるかのように誤信させて
抵抗できなくしたうえで、浴槽や寝室内で女性の下腹部や胸を触るなどのわいせつ行為をした。
岩月被告は起訴事実をほぼ認めているという。また、岩月被告は複数の女性に対し、
同様の行為をしていたと供述しているという。【高橋恵子】
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なぜ、岩月謙司氏がこのように「父親のセクハラ」そのままの矛盾した行動をとるのだろうか。
あたかも森田療法の「思想の矛盾」そのままのような行動である。
これ以外にも、岩月氏の著書の記載と行動の矛盾は多く見受けられる。
岩月氏は「男と女のラブゲーム」において、
研究者と大学教授などを「自己肯定が強い問題児」と批判している。
この本の出版前、岩月氏は日本石油化学株式会社の研究員であり、
その直後に香川大学に教員として就職している。つまり、自らの職業を批判している。
そして、岩月氏は今回の事件において、公判で行為の正当性を全面的に争っており、
「自分が悪いのではないか」と認めていない。
つまり、岩月氏は、自分の職業が自己肯定が強く独善的な傾向をもつことに批判的でありながらも、
本事件においても独善的でかつ自己肯定が強いままである。
これは「思想の矛盾」である。
「男と女のラブゲーム」 69頁
このような問題児は共通した性格が見られる。
この章で述べたことの合併症と表現してもいいのだが、まずあげられるのは
自己肯定の強さである。つまり、常に自分は正しいと思っているので、何か問題が発生しても
「自分が悪いのではないか?」という発想をしない。しかも攻撃性が強い。
・・・略・・・
このような傾向は、人に頭を下げなくていい職業、例えば
教員、医師、弁護士、エリート公務員、研究者、マスコミなど
ある特定の職業人に見られることがある。
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岩月氏は「女は男のどこを見ているか」にて、交通事故トラブルの相手を著作にて攻撃し、
その直後の段落にて「愚痴と悪口も禁止事項です」と矛盾した記載をおこなっている。
2005年4月に、インターネット上のタウンーページで検索を掛けたところ
異体字を名称とする会社がヒットした。(但し、現在は検索不能)
つまり、岩月氏は交通事故トラブルの相手の名前と住所を殆どそのままの形で著作に掲載して
攻撃していたのである。これは愚痴と悪口に相当する。
しかし、岩月氏は愚痴を悪口を記載した直後の頁に、愚痴と悪口を禁止事項だと記載している。
これだけ愚痴と悪口を書いている岩月氏が、なぜ愚痴と悪口を禁止事項だと言えるのだろうか。
これも「思想の矛盾」である。
「女は男のどこを見ているか」 初版 143頁
ある日、私は、自家用車で、高松卸売り市場前の交差点で信号待ちをしていました。その時、
大型トラック(魚を運搬する大型トラック)に追突されてしまったのです。
すごい衝撃でした。まるで大地震に遭遇したかのような揺れでした。
トラックを運転していたのは□■(*1)道明(仮名)という昭和五十一年生まれの、
当時二十四歳の男性でした。「すみませーん、脇見運転してました。パトカー呼ばないでください。
弁償します。」と低姿勢です。私は急いでいたこともあり、請求書(見積書)を送ったら銀行に振り込む、
という約束をかわして別れました。
ところが、請求書を送ったにもかかわらず、待てど暮らせど振込みがありません。携帯に
電話しても、「現在この電話は使われておりません」というメッセージになっています。
「ヤラレタ!」と思いました。計画的犯行です。人をだますのに慣れている人なのでしょう。
そこで、トラック横に書かれていた『徳島県撫養町木津・□■(*1)産業』(仮名)に電話しました。
彼の父親が社長でした、これで払ってもらえると思ってほっとしたのですが、浅はかでした。
息子は確かに□■(*1)道明だが、事故のことは聞いていない、知らぬ、存ぜぬ、の一点張りです。
逆ギレまでする有様です。この子にしてこの子の親ありか、と私はひどく落胆しました。
パトカーを呼ばなかった私の落ち度です。
住所の読みの通り、うやむやにされたのです。
(*1:日本で5番目に多い苗字の異体字が記載されていた。伏字はWebmasterによる。)
(第2版以降は、他の名称に変更されていた。)
147頁
愚痴と悪口も禁止事項です。なぜ、愚痴と悪口がダメなのかというと、
自己否定(拒絶)と他者否定を同時にすることだからです。自分を受け容れられない人が
人を受け容れられる道理がありません。人は「楽しい自分」しか受け容れることはできません。
愚痴は、自分自身を受け容れられない人がする行為です。
いえ、自分自身を受け容れられないからする行為です。
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思想の矛盾ということについて、少し説明を加えておきたいと思う。
およそ思想というものは、私たちの体験的、主観的事実を外界に投影し、
模型的に客観化したものであるから、ちょうど私たちの顔を鏡にうつしたようなもので、
単に表面のかたちにとどまり、右と左の錯誤、矛盾のことが多い。
それ故私たちは、思想をそのまま事実と信じて、これにとらわれるときには、
しばしば鏡に向かってヒゲをそるのに、カミソリの向け方が思うようにならないと
同様のことが多いのである。
だから私が常に神経質患者に対して注意するところは、私たちはその思想にとらわれて、
直接に、その行為を当てはめようとするときには、いたずらにくい違い、矛盾におちいることが多いから、
思想は行動の見当をつけるにとどまらなければいけない。
それはちょうど鏡に対して、単に顔の局所の見当をつけるにとどめ、カミソリは自然の手の運動に
まかせるようにしなければならないようなものである、ということである。
患者は眠る工夫をして、ますます不眠となり、苦痛を忘れようとして、ますますこれに執着するようになり、
強迫観念を抑圧しようとして、ますますこれに悩まされるようなことは、すべてこの思想の矛盾にとらわれるためである、
ということができる。
この思想の矛盾のために、私たちは日常、これにあざむかれていることが非常に多い。
神経質患者はしばしば、「他の病気ならば仕方がないけれども、この病のためには死にたくない」とか、
「他の苦痛ならば、どんなことでも忍耐するけれども、ただこの苦しみだけは、がまんができない」とかいい、
あるいは不潔恐怖患者が、その手を洗う苦痛にたえかねて、「むしろこの手を切ってしまいたい」などということがある。
みんな目前の自分の心をみずからあざむいている思想の矛盾であって、本当は自分が他のどんな
苦痛にもたえられず、どんな病気にも死ぬことはいやである、ということに自分から気がつかないのである。
これと同じ意味で、患者は常に自分の安逸、怠惰や責任の回避などを求めるために、この思想の矛盾によって、
自分をあざむき、いろいろな口実をもうけて、自己弁解をしつつあるものである。
岩月謙司氏は果たして神経質患者(今の神経症患者)なのだろうか。
そして、岩月氏は「思想の矛盾」に囚われているのだろうか。
後は皆様ご自身で判断いただきたい。
最後に、「ムリして頑張って何になる」 215頁の恐ろしい記載を紹介する。
岩月謙司著 「ムリして頑張って何になる」 215頁 (2004年4月10日発行)
(娘にセクハラした)父親は、娘の死を願うようになります。
娘は「生き証人」だからです。
娘が将来、誰かにしゃべることを恐れているのです。
だから、死んでほしいと思うのです。
・・・略・・・
父親は、その後も、娘を遠ざけ、娘の死を願い続けます。
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「実父によるセクハラ」が岩月氏の自作自演ならば、
「父親」とは岩月氏自身の隠喩で、
「娘」とは本事件の被害者の隠喩でである。
よって、この文章は、岩月氏が被害者の女性を「性虐待の生き証人」として恐れ、
死んで欲しいと願ったものと解される。
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