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岩月謙司氏が行った「タントラ」の検証

  • 岩月氏は、相談者の女性に「タントラ」と称して性行為を行っていた。具体的には以下の記事をご参照いただきたい。

    わいせつ行為で岩月・香大教授に実刑 四国新聞 2006/03/24

     心の病の相談に訪れた女性に対し、心理療法と称してわいせつな行為 をしたとして、準強制わいせつの罪に問われた香川大教育学部教授、岩 月謙司被告(51)=香川県高松市昭和町一丁目、休職中=の判決公判 が二十三日、高松地裁であり、増田耕児裁判長は懲役二年(求刑懲役三 年)を言い渡した。岩月被告は判決を不服として即日控訴した。量刑理 由で増田裁判長は「信じて頼ってきた女性の精神的不安定さにつけ込ん だ犯行は卑劣極まりない。女性に損害賠償を求めるなど自己保身のみに 心を砕き、反省していない」と指摘した。

     公判で被告側は「行為は女性自ら判断または納得した上で行われた」 などと無罪を主張したが、増田裁判長は「被告自身が性的満足を得る意 図だったことは明らか」とした上で、「女性は症状の改善を強く期待し ていたため、被告の言葉を信じるしかなかった。心理的に抵抗不能な状 態だったというべき」として準強制わいせつ罪の成立を認めた。

     増田裁判長はこのほか、 被告が「タントラ」と称して約二十人の相談者と性行為に及んでいた と事実認定し、「自分の意図を受け入れる女性 の見極めや、そうした女性を性的行為に応じるよう仕向ける手法を身に 付けていたと推認できる」と述べた。

     判決によると、岩月被告は二〇〇二年四月二十七日から翌二十八日に かけ、神経症的な症状の相談のため同被告宅を訪れた二十代の女性に対 し、「重度の幸せ恐怖症だ。のろいを解かないと幸せを逃してしまう」 などと言って症状の改善に必要な行為と信じ込ませ、浴室や寝室で胸や 下腹部を触るなどした。

     事件は女性が〇二年五月に岩月被告を告訴。高松地検は当初、嫌疑不 十分として不起訴にしたが、高松検察審査会が〇四年七月に不起訴不当 と議決したことを受け、再捜査。同年十二月に同被告を逮捕、起訴した。

     岩月被告の弁護団は判決後の会見で「予想外の結論。女性は自分で服 を脱ぐなどしており、抵抗不能な状態だったと判断するのはおかしい」 と判決を批判。一方、高松地検は「被害者の感情をくんだ妥当な判決だ」 としている。


    岩月氏は、この翌日に香川大学を懲戒解雇された。 公判にて、約二十人の相談者と「タントラ」と称して性行為に及んでいたことが事実認定されたことが重視されたそうである。

    準強制わいせつ・岩月教授を懲戒解雇 四国新聞

    2006年3月28日 09:43

     香川大(一井真比古学長)は二十七日、準強制わいせつの罪で 懲役二年の実刑判決を受けた岩月謙司教育学部教授(51)を、 同日付で懲戒解雇とする懲戒処分を決めた。同大によると、教授の懲戒解雇は初めて。

     同日開いた人事審査委員会と教育研究評議会で処分内容を審議し、 学長が決定。同教授に処分内容を通知した。

     審議では、実刑判決に加え、公判を通じ、同教授が約二十人の 相談者と「タントラ」と称して性行為に及んでいたことが事実認定された点を 重視。岩月教授側は判決を不服として控訴しているが、「大学教授の 行為としては許されない」として懲戒解雇が妥当とした。

     会見した一井学長は、「社会的使命を担う大学の名誉と信用を失い かねない事態を招いた。改めておわびする」と謝罪。その上で 「信頼回復に向け、再発防止に努めたい」などと述べた。

     岩月教授は二〇〇四年十二月、心理療法と称して相談者の女性に わいせつな行為をしたとして、準強制わいせつ罪で起訴。今月二十三日に 高松地裁で実刑判決を受けた。


    ここで岩月氏が相談者の女性に行った性行為の「タントラ」とは、どのようなものなのだろうか。 よって、岩月氏の著作から、タントラに関する部分を抜粋してみた。

    岩月謙司著 「自分にウソをついて何になる」 160-161頁(2000年11月初版)

    自分にウソをついて何になる

    縄文人にとっては、調和をもたらすものが神なのです。
    そのなかでも、特に男女の交合(タントラ的交合)によって出現するパワーをもっとも 重視していました。

    心清らかに、相手を思い合った者どうしの交合は法悦を生み、 それが曼荼羅やチャクラを見るほど強烈なビジョンをもたらすようです。

    ただし、心に怒りがある者、プライドが捨てきれない身の、智恵と勇気と愛と感謝を 実践していない者が愛し合っても、大きな聖なるパワーを生み出すことはできません。 それゆえ、聖なるパワーを生み出した経験のない人には、結びの思想も タントラも理解することはできません。

    岩月氏は、自分に自信を持っており、心が純粋であると自負していた、 詳しくは、「女は男のどこを見ているか」の記載を参照いただきたい。この本に出版時に岩月氏は47歳である。

    岩月謙司著 「女は男のどこを見ているか」 114頁 (2002年9月20日初版発行)

    女は男のどこを見ているか もし、たくさんの問題を解決してきた人なら、40歳を過ぎるころから、自分に自信が
    持てるようになります。仕事に誇りや自信を持っていることは当然ですが、自分自身
    に対して自信が持てるようになるのです。この自信が女性を安心させる原動力になるのです。
    男性は本来、英雄体験を重ねることで、心が純粋になっていく動物です。
    ・・・(略)・・・
    女性は、純粋な愛で愛されてこそ、大人になるにつれ純粋になっていくのです。
    子どもよりも純粋な大人がホンモノの大人なのです。

    つまり、「自分にウソをついて何になる」 の縄文人とは、岩月氏自身を投影したものである。 岩月氏は心が純粋であるためタントラが理解でき、タントラ的交合により法悦を生み出すことができることを自負したものと解釈される。

    岩月謙司著 「自分にウソをついて何になる」 163頁(2000年11月初版)

    自分にウソをついて何になる

    そして、彼ら(縄文人)のしていた交合は、現代人が想像するような オス、メス的ないやらしいセックスではありませんでした。

    彼ら(縄文人)のしたセックスは、母が赤ちゃんを だっこするようなやさしいスキンシップだったのです。
    あくまでソフトでやさしく、貴賓あふれるものだったのです。
    必ずしも射精を目的としない肌と肌とのふれあいだったのです。
    タントラと呼ばれているものです。

    タントラとして現代に伝わっている書物から想像すると、 縄文人たちは一時間でも二時間でも結合したままでいたことでしょう。
    同じ行為をしても、どんな心でそれをしたか、どんな気持ちでそれをしたかによって、 まったく別物になってしまう世界、それが男女の交合の世界(結びの思想の世界)です。
    性というものがエッチで卑猥でいやらしいと思っているうちは、タントラ的交合はできないようです。

    下線部を参照すると、この「タントラ的交合」が相談者の女性に対する「育て直し」として行われたことが明確になるであろう。 なお、タントラとはサンスクリット語であり、日本の縄文時代とは何ら関連性を有さない。タントラに関する書物があったとしても、 それと縄文人の性生活との関連性はない。

    更に、「縄文人のセックス」という記載が同書の他のページにも記載されている。

    岩月謙司著 「自分にウソをついて何になる」 122頁(2000年11月初版)

    自分にウソをついて何になる (縄文時代は)膣からの分泌物の粘度でもって排卵日を知ることで 妊娠を避ける方法や、膣外射精、薬草を用いる方法なども併用した 可能性は高いでしょう。
    (略)
    縄文人たちは自分たちのS型文明を維持するために、できるだけ人口が増えない ように努力したのです。

    実際には、日本の縄文時代には文字による記録はなされていない。よって岩月氏を含め、このようなことは知る由もない。 つまり、これらの記載は、縄文人に自身の行為を投影したものであろう。

    また、「母親よりも恵まれた結婚ができない理由」にも「タントラ」と思しき記載が見られる。

    岩月謙司著 「母親よりも恵まれた結婚ができない理由」 250頁(2000年6月初版)

    母親よりも恵まれた結婚ができない理由(わけ)―女性の「オトコ運」を母の嫉妬がくるわせる 神聖で崇高なセックスは、一時間以上も結合したままでいられます。
    愛の交歓ができると結合してじっとしていても充分気持ちがいいのです。
    いえ、その方が気持ちいいのです。
    こうなると、セックスというよりもスキンシップといった方が正確かもしれませんね。

    これを文庫本化したのが「幸せな結婚をしたいあなたへ」である。

    岩月謙司著 「幸せな結婚をしたいあなたへ」 327頁(2003年9月1日文庫化:初出は2000年7月)

    幸せな結婚をしたいあなたへ    新潮文庫 神聖で崇高はセックスは、一時間以上も結合したままでいられます。 愛の交歓ができると、結合してじっとしていても充分気持ちがいいのです。 いえ、そのほうが気持ちいいのです。
    こうなると、セックスというよりもスキンシップといった方が正確かもしれませんね。


    タントラ・セックス とは、Weblio辞書によれば、 性交時のオーガズム(アクメ)をセックスの目的と考えず、それ以前の状態に長時間留まり続けるような性交の仕方、などを意味する表現である。 また、 Wikipediaによれば、以下のように記載されている。

    タントラ・セックス・Wikipediaより

    タントラ・セックスは古代インド・ヒンドゥー教の性の実践における宗教的伝統である。
    タントラにおいては従来的(欧米的)な性への文化的アプローチとは異なり、オーガズムを性交の目的とは考えない。
    タントラ・セックスの実践者たちは、数多の体位や性技を用いオーガズム以前の状態に長時間留まり続けることで心身の長い恍惚を得ようとし、 オーガズムはその1つの区切りに過ぎないと考える[85]。性のエネルギーはオーガズムではなく、至福の悟りへと進むために用いられるのである。
    バグワン・シュリ・ラジニーシのような現代のネオ・タントラ・セックスの唱道者たちは、 こうしたアプローチによりオーガズムの感覚が意識的体験の全域へと広がってゆくのであると主張しており、 西洋文化が絶頂感のオーガズムという目的に焦点を合わせすぎで、性体験での他の時間において深い快楽を味わうことを妨げていると主張しており、 これを取り除くことによってより豊かで、十全で、強力なつながりを得ることができるのだと説いている。

    これが、性行為としての「タントラ」の意味である。岩月氏の言うところの「タントラ」と良く一致していることが判る。


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