Site hosted by Angelfire.com: Build your free website today!
吉田 受験生特集号の目次   小久保

勝ち残った怠けの者

文学部 大野達也

受験生特集号6面

 僕はあまり勉強しない人間だった。特に考えがあって勉強しなかったわけではない。ただ、怠け者だった。

 すべては高校受験の時から始まった。この頃から怠け者だった僕は、ほとんど受験勉強をしなかった。しかし、幸運にも受験戦争に勝ってしまったのである。その時の過信、高校での自堕落な生活の積み重ねが後の僕を苦しめることになる。

 さすがに高校三年生にもなると、回りの人間が心配し始めた。プレイステーション封印などの激励もあって、ある程度は勉強せざるを得なかった。それでも僕の怠け者精神は燃え尽きなかった。まず、一教科一参考書という原則を一途に守り通した。この原則は、生徒が参考書を買いすぎて混乱しないようにと高校の先生が唱えたものだ。僕はわざと悪い方に解釈し、英語などは単語集しか使わなかった。学校が休みに入っても、予備校にも通わなかった。親には学校でクラスメイトと勉強するとうそぶいて、校庭でキャッチボールをしていた。

 そしてセンター試験当日、僕は理由もなくリラックスしていた。自分が失敗するはずはないと思った。そして結果は六百四十点。異例の大成功を収めた。なぜか。分からない。運が良かったか、勘が鋭かったか。

 続く私立大受験。徐々に化けの皮が剥がれ始める。僕は東北大学が第一志望だったため、私大はその予行演習のつもりでいた。せっかくなのでたくさん受験した。しかしその結果がもたらされる度に、家族に戦慄が走った。示し合わせたように関西の大学ばかり受かっていた。関東の大学は全滅。僕は関東の人間である。親には、家計の問題で私立大なら一人暮らしはできない、と宣言されている。浪人しても予備校に行かせる金は無いという。追い詰められた。それでも僕は反省しなかった。

 二次試験の前日、僕は片道三時間半の特急で仙台に乗り込んだ。特急に揺られている間はゲームボーイをしていた。プレイステーションが封印されて以来、密かに愛用していたのである。黄ばんだ本体や二つだけのボタンは郷愁さえ感じさせた。そして晩御飯には牛タンを食べることにした。以前から、仙台に行くなら一度は食べたいと思っていた。この日は古典の単語集を一瞥してすぐにベッドに入った。

 そして二月二十五日、試験が始まった。やはり教室には頭の良さそうな受験生が多かった。とにかく定員ぎりぎりの百八十番までに滑り込めばいいのだと自分に言い聞かせた。初日は英語と国語だった。自分ではなかなか良い出来だと思った。同時に、良い出来だと思い込んでいるだけなのかもしれないとも思った。ここへきて僕の自信が揺らぎ始めた。文学部の配点は英語と国語がそれぞれ四百点ずつで、数学が二百点である。これはもう手遅れだと開き直り、その日の夜は毎週読んでいる雑誌を読んでふて寝した。

 二日目、睡眠時間をたっぷり取った僕はさっそうと自分の席についた。数学は得意分野でもあり、体調がすこぶる良かったせいもあり、余裕を持って試験を終えることができた。しかし試験後、何気なく周りの答案を見渡してみると、みんな解答がバラバラであることに気がついた。みんな苦労しているのだなと、奇妙な親近感を覚えた。

帰りのバスの車中、先ほどの親近感は一気に失せた。僕の横にいた二人の女性が「数学の先生の言った問題、本当に出たね」と得意げに語っていた。僕は反省した。そして自分を呪った。まじめに先生の話を聞かなかった自分を。遊んでばかりで大して勉強をしなかった自分を。

前期試験から合格発表の日まで、僕は一心不乱に勉強した。後期の試験科目は小論文で、一朝一夕でどうにかなるものではないということは分かっていた。しかし何かしないではいられなかった。後悔の念と有り余った体力が僕を突き動かした。自分がどんどん成長しているようで楽しくもあった。前期試験の合否はインターネットで調べることにした。どうせ落ちているのだから仙台へ見に行くこともないだろうと、親と話していたのである。それでも期待せずにはいられない。パソコンの画面を凝視すること二十秒、なんと自分の番号があるではないか。その日、プレイステーションの封印は解かれた。

そして僕は大学生になった。今でも試験には苦しめられている。しかし大学受験に比べれば楽だ。それは自分が成長したせいだと思う。


[back] [index] [next]


Copyright (C) 1999-2000 by 東北大学学友会新聞部
E-mail:tonpress@collegemail.com